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若泉敬 : ウィキペディア日本語版
若泉敬[わかいずみ けい]

若泉 敬(わかいずみ けい〔本来の読みはたかしであるが、外国人が発音しやすいようにけいと名乗るようになった。後藤乾一『「沖縄核密約」を背負って』岩波書店、2010年、2ページ。〕、1930年昭和5年)3月29日1996年平成8年)7月27日)は、日本の国際政治学者沖縄返還交渉において、佐藤栄作の密使として重要な役割を果たしたとされる人物。
== 生涯 ==

=== 出自・前半生 ===
福井県今立郡服間村(現越前市横住)で、父・齊と母・マツエの長男として生まれる。服間尋常小学校卒業後、福井青年師範学校に進学し、後に妻となる根谷ひなを〔明治大学に進学し、卒業後、司法試験に合格、福井県初の女性弁護士となる。1959年、若泉と結婚。1985年6月23日心筋梗塞により死去。〕と出会う。1949年(昭和24年)、師範学校本科を卒業し、明治大学政治経済学部政治学科に進学するが、1年後の1950年(昭和25年)、東京大学法学部を受験し合格〔明治大学は1950年12月に退学。〕。在学中、矢崎新二岩崎寛弥佐々淳行粕谷一希福留民夫池田富士夫などと親交を深め、学生研究会土曜会のメンバーとして活動し、芦田均などの政治家や大山岩雄などの言論人の知遇を得る。1952年(昭和27年)に国連アジア学生会議の日本代表としてインドとビルマを訪問し、このときの体験をもとに大林健一の筆名で『独立インドの理想と現実』と題する小冊子にまとめて刊行した。
1954年(昭和29年)、東京大学法学部政治学科卒業後、佐伯喜一の知遇を得て、保安庁保安研修所教官となる。1957年(昭和32年)、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス大学院修了。1960年(昭和35年)、米国ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所(SAIS)に留学。客員研究員として滞在中、マイク・マンスフィールドディーン・アチソンウォルター・リップマンウォルト・ロストウらと面識を持つ〔アメリカの要人・知識人との交流の一端は、中央公論1961年3月号の「オピニオン・リーダー会見記」からうかがうことができる。〕。
1961年(昭和36年)より防衛庁防衛研究所所員。1966年(昭和41年)、創立に貢献した京都産業大学より法学部教授として招聘され、同大学の世界問題研究所所員を兼任した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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