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『苦楽』(くらく)は、日本の大衆文芸雑誌。 1923年 - 1928年に直木三十五らによって発行されたもの(第1期)と、1946年 - 1949年に大佛次郎を中心として発行されたもの(第2期)がある。 == 第1期 == === 創刊前夜 === 1922年(大正11年)、「クラブ化粧品」で知られる大阪の化粧品会社・中山太陽堂(現クラブコスメチックス)が、出版社・プラトン社を設立した。中山太陽堂の顧問であった小山内薫をプラトン社の編集長に、同社の広告図案家だった山六郎をプラトン社に出向させ〔「高畠華宵大正ロマン館」公式サイト内の「山六郎 」の記述を参照。〕、同年4月、雑誌『女性』を創刊していた〔中山太陽堂の後身・クラブコスメチックス公式サイト内の記事「プラトン社 」の記述を参照。〕。 プラトン社では、さらに雑誌を創刊する予定があり、文藝春秋社にいた直木三十五(当時「直木三十二」)が、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災を機に、菊池寛、芥川龍之介、久米正雄、里見弴らの推薦状を持って大阪に移り、プラトン社に入社した。直木と同期入社の編集者に川口松太郎、デザイナーに山名文夫がいた。直木が新雑誌の編集を受け持つこととなり、同年12月には「1924年1月号」をもって第1期『苦楽』は創刊された〔。雑誌名「苦楽」とは、英語の「life」を小山内が日本語に翻訳したものである。『苦楽』の発行人は、『女性』同様、松阪青渓が引き受けた〔松岡正剛の公式サイト「松岡正剛の千夜千冊」内の記事「直木三十五『南国太平記』上・下 」(2001年8月24日)の記述を参照。〕。 編集方針は、講談でも文壇小説でも満足しないというハイブラウな層に向けたものであった。創刊号の執筆者は小山内や直木のほか、里見弴、吉井勇、岡本綺堂、白井喬二らで、創刊特別別冊大付録「代表的五大名家戯曲傑作集」には、谷崎潤一郎、菊池寛、山本有三らの作品が掲載された。直木の『槍の権三重帷子』は自身初めての小説で、その後は「仇討物」を中心に多くの時代小説を掲載するようになり、これらの作品が菊池寛に認められて、『文藝春秋』にも執筆するようになった。編集者には川口、デザインは山と山名が『女性』に平行して行ない、挿絵画家に岩田専太郎、竹中英太郎がいた〔。 1924年(大正13年)の5月号に、直木が「香西織恵」の筆名で書いた『心中きらゝ坂』は評判がよく、牧野省三のマキノ映画製作所等持院撮影所が『雲母阪』(監督沼田紅緑、同年6月20日公開)のタイトルで映画化した。この成功で直木は映画製作に大いに興味を持ち、1925年(大正14年)3月には奈良に映画製作会社・連合映画芸術家協会を設立、夏にはプラトン社を退社した。 同年4月、プラトン社が堂島ビルディングに移転、同年、研究機関「中山文化研究所」を併設、所長に富士川游を招き、大阪の堂島ビルと東京の丸ノ内ビルヂングに置いた。プラトン社は東京に本格進出し、1926年(大正15年)には岩田専太郎が、翌1927年(昭和2年)には川口松太郎がそれぞれ東京に転居し、ふたりは「田端文士村」に住んだ。直木も同年には「連合映画芸術家協会」を解散し、プラトン社について東京に舞い戻る。 大衆小説の草分け的雑誌であり、アール・デコの強い影響を受けたソフィスティケイトされたデザインの雑誌として、プラトン社が廃業する1928年(昭和3年)5月まで、『女性』誌とともに発行された〔。江戸川乱歩が多くその作品を発表したことでも知られ、小酒井不木、片岡鉄兵、横溝正史、甲賀三郎、阿部恒郎、馬場孤蝶、松本泰、本田緒生、延原謙、牧逸馬、角田喜久雄、大下宇陀児、小舟勝二らの探偵小説が掲載された。全51号。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「苦楽」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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