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茅原 華山(かやはら かざん、1870年8月29日(明治3年8月3日) – 1952年8月4日)は、明治・大正・昭和期の評論家、ジャーナリスト。本名・茅原廉太郎。「民本主義」という概念を初めて提唱した人物とされ、大正デモクラシー初期に青年層に多大な影響を与えた。 ==来歴・人物== 東京市牛込区(現・東京都新宿区)に、明治維新後没落した旧幕士・茅原邦彦の長男として生まれる。幼名廉平。11歳の時に父を亡くし、太政官小舎人(給仕のような身分)として働き始める。後に逓信省に移る。反藩閥・反官僚の思いを抱きながら人格形成期を過ごした。仕事の傍ら漢詩を学び、美文家として名をなす基礎となる。また一時期「国民英学舎」に通い、イギリスの歴史家トーマス・マコーリーらの著作に親しんだ。ここで学んだアングロサクソン流の自由主義・個人主義・功利主義が、華山の生涯を貫く思想的バックボーンとなる。 1892年、『東北日報』の論説記者となる。以後『山形自由新聞』主筆、『長野新聞』主筆などを歴任、1903年に帰京して『電報新聞』に入社し、対露主戦論を展開する。翌1904年には黒岩涙香主宰の『万朝報』に入社し、幸徳秋水・堺利彦・内村鑑三ら反戦派が退社した後の論説をリードする。翌1905年から海外通信員として欧米に派遣される。1908年には日本人として初めてアイスランドを訪れている。 1910年に帰国後は万朝報にて言論活動を再開し、民本主義を提唱し始めた。1913年からは秋田県出身の青年石田友治とともに社会評論誌『第三帝国』を創刊し、「小日本主義」を唱え植民地放棄を訴えた。読者には若き日の鈴木茂三郎、宇野弘蔵、尾崎士郎らがいた。1914年10月からは同誌上で「普通選挙請願運動」キャンペーンを展開する。この過程で、黒岩涙香との意見の対立が抜き差しならないものとなり、同年万朝報を退社する。 1915年には第12回衆議院議員総選挙に東京市から立候補し、選挙運動費の公表など「模範選挙」を標榜するも、結果は得票数129票、立候補者29名中24位で落選する。失望した華山はいきなり代議政治・政党政治無用論を唱え始め、大杉栄・堺利彦・荒畑寒村ら社会主義者から激しく罵倒を浴びせられた。かつて華山は社会主義を「悪平等」と批判したことがあり、その意趣返しの意味合いもあったろう。同年には『第三帝国』で内部分裂が起き石田友治と袂を分かつ。その後は1920年に直接購読雑誌『内観』を発行し、少数の支持者に支えられながら評論活動を継続する。 後年の弟子筋に、政治家となった中野四郎(元国土庁長官)がおり、戦時中の疎開の斡旋や晩年の療養費の工面など、まめまめしく華山の世話をしていた。 1952年8月4日、老衰のため逝去。享年83。 茅原健(1934年-)は次男、退二郎(1898年2月1日-2002年8月27日)の長男。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「茅原華山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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