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草野心平(くさの しんぺい、1903年(明治36年)5月12日 - 1988年(昭和63年)11月12日)は日本の詩人。福島県石城郡上小川村(現・いわき市小川町)出身。 == 経歴 == 5人兄弟の次男として生まれる。兄の草野民平(くさの みんぺい、1899年(明治32年) - 1916年(大正5年))、弟の草野天平(くさの てんぺい、1910年(明治43年) - 1952年(昭和27年))も詩人。1919年、磐城中学(現・福島県立磐城高等学校)を4年生で中退したのち上京し、1920年、慶應義塾普通部3年次に編入。同年、同校を中退し、1921年、中国の広東嶺南大学(現・中山大学)に進学する。 1925年(大正14年)排日運動により、帰国。詩作はこの留学中に開始されている。 1923年(大正12年)には、民平と自己の詩をおさめた『廃園の喇叭』を自費出版(この時は一時帰国していたため、出版地は日本)。帰国後、雑誌『銅鑼』を主催し、ここに宮沢賢治や八木重吉らを同人に誘い、彼らの作品の紹介に努めた(彼らの没後まで心平は紹介を続けたが、生前に直接面識を得ることはなかった)。 1928年(昭和3年)、活版刷りとしては初の詩集となる『第百階級』を刊行。全篇が蛙をテーマにしたものであり、以後も、この生物を扱った詩を書き続けた。 1935年(昭和10年)には、中原中也らと詩誌『歴程』を創刊する。 1938年(昭和13年)2月から4月まで、『帝都日日新聞』の記者として満州・中国に渡りそのときの模様を『支那転々』にまとめている(なお、同時期の日記は現存しない。また南京陥落の1937年12月には南京には滞在していない)。その後、南京に成立した汪兆銘の中華民国国民政府の宣伝部長を務めていた大学の同窓生に誘われ、宣伝部顧問として終戦まで南京に滞在する。在中時代は、焼き鳥屋をやっていた経験を持ち、戦後日本に帰国した際にも「火の車」という焼き鳥店を経営していた。 1950年(昭和25年)には、「蛙の詩」によって、第1回読売文学賞を受賞。 1953年(昭和28年)、福島県川内村長福寺の住職矢内俊晃の招聘で同村平伏沼にモリアオガエルを見に行く。 1956年(昭和31年)、平伏沼畔に心平の歌碑が建立される。 1960年(昭和35年)9月、川内村名誉村民となる。 1966年(昭和41年)7月、川内村名誉村民の章として天山文庫が建設され、その後毎年7月に天山祭りが開催されるようになる。 1976年(昭和51年)、3月29日、東京都東村山市秋津にある自宅に隣家の火事が類焼し半焼。草野本人は避難して無事だった。 1983年(昭和58年)、文化功労者。 1984年(昭和59年)7月、いわき市名誉市民となる。 1987年(昭和62年)には文化勲章を受章。 1988年(昭和63年)11月12日死去。 1998年(平成10年)8月に、心平の功績が称えられ、福島県いわき市にいわき市立草野心平記念文学館が開館した。 2003年(平成15年)4月、生家が一般公開される。 墓石は、福島県いわき市小川町上小川・常慶寺にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「草野心平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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