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草鹿龍之介[くさか りゅうのすけ]
草鹿 龍之介(くさか りゅうのすけ、1892年(明治25年)9月25日 - 1971年(昭和46年)11月23日)は、日本の海軍軍人、剣道家。海軍兵学校41期生。海軍大学校21期。最終階級は中将。一刀正伝無刀流第4代宗家。 == 経歴 == 住友本社理事・草鹿丁卯次郎の長男として東京で生まれる。本籍は石川県。草鹿家は加賀大聖寺藩に仕えた一族である〔#提督 草鹿任一1頁〕。草鹿任一中将は従兄。 大阪天王寺中学校を卒業。豊田貞次郎、近藤信竹は中学同窓で東龍太郎は同級生である。草鹿は進路を決定する際、父の命により西田幾太郎、平沼騏一郎、鈴木馬左也に面会し相談している。草鹿が軍人の道を歩むことに西田は反対したが、草鹿は第一高等学校に合格するも兵学校に進んだ。1910年(明治43年)9月12日、海軍兵学校41期に次席の成績で入学。伍長補は伊藤整一だった〔#草鹿半生記76頁〕。当時、巡洋艦「千代田」に乗艦していた従兄の草鹿任一が兵学校に入校する龍之介を江田島まで案内した〔#草鹿半生記73頁〕。兵学校では上級生が下級生を殴って鍛える風習があったが、草鹿は行わなかった〔#高木24頁〕。41期は2年時に学術優等章を授与されたものが17名に上る成績優秀者が多いクラスであった。1913年(大正2年)12月19日、海軍兵学校41期を14番の成績で卒業し、海軍少尉候補生となる。 1914年(大正3年)8月11日、防護巡洋艦「音羽」乗組となり、8月24日から日独戦争に従軍。1920年(大正9年)、特務艦 「関東」分隊長(大尉)となり、カムチャツカ地方に派遣された〔#草鹿半生記124頁〕。 横須賀鎮守府参謀を務めていた1923年(大正12年)9月1日、関東大震災に遭遇したが、デマに惑わされず状況を把握して人心の動揺を防ぐことに努めた〔#草鹿半生記174頁〕。1924年(大正13年)12月1日、海軍大学校甲種学生24期入学。同期生(大洋会)には原忠一、山口多聞、福留繁、小柳冨次、寺岡謹平などがいた〔#草鹿半生記185頁〕。在学中、草鹿は電気通信の授業中に電探のアイデアを思いつき、浜野力大尉に提案したが〔#草鹿半生記192-193頁〕、浜野は「大尉の自分の提案を海軍が聞くわけない」と断り、後日「あのときやっておけば」と後悔したという〔#草鹿半生記194頁〕。1925年(大正14年)12月1日、海軍大学校を卒業し海軍少佐に進級。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「草鹿龍之介」の詳細全文を読む
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