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荒井 聰(あらい さとし、1946年5月27日 - )は、日本の政治家、農林水産官僚。民進党所属の衆議院議員(7期)、学校法人札幌慈恵学園顧問。報道等では荒井 聡の表記も用いられる。 内閣府特命担当大臣(経済財政政策・消費者及び食品安全)、内閣総理大臣補佐官(鳩山由紀夫内閣)、衆議院内閣委員長、衆議院災害対策特別委員長、衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長、日本新党代表幹事(初代)等を歴任。 札幌商業高等学校の教員等を経て学校法人札幌慈恵学園を創設した荒井龍雄は父。また、近衛文麿や鈴木貫太郎らのブレーンを務め、のちに三幸建設工業の社長に就任した四元義隆は岳父。 == 来歴 == 北海道石狩郡当別町生まれ〔民主党議員 〕〔衆議院議員 荒井さとし プロフィール 〕。北海道札幌南高等学校、東京大学農学部卒業。1969年、大学を卒業し農林水産省に入省した。1979年より外務省へ出向し、スリランカへ赴任。1986年、羽田孜農林水産大臣(当時)に命じられ、北海道庁へ出向。1991年から2年間、横路孝弘北海道知事(当時)の下で知事室長を務める。1993年退官。 同年、第40回衆議院議員総選挙に結党間もない日本新党公認(新党さきがけ推薦)で旧北海道1区から出馬し、初当選した。党役員人事により日本新党の初代代表幹事に就任。1994年、日本新党を離党。新党さきがけに入党し、政策調査会副会長に就任した。現職横路孝弘の不出馬に伴う北海道知事選挙では、元日本社会党衆議院議員でありながら自由民主党の支援を受ける弁護士の伊東秀子を新党さきがけも支持したが、伊東は古巣である日本社会党や新進党、公明・民社協会が推薦した堀達也に敗れ、落選した。1996年、党副院内幹事に就任。同年、新党さきがけを離党し旧民主党結党に参加。第41回衆議院議員総選挙では小選挙区比例代表並立制の導入に伴い、北海道3区から旧民主党公認で出馬したが、自民党の石崎岳に敗れ、次点で落選した。1999年より2005年まで、北海学園北見大学開発政策研究所の特別研究員。 2000年の第42回衆議院議員総選挙では、北海道3区で前回敗れた石崎を下し、4年ぶりに国政に復帰。2003年の北海道知事選挙では、衆議院議員を辞職して出馬した民主党・自由党・社会民主党が推薦する鉢呂吉雄を支持したが、鉢呂は高橋はるみに敗れた。また同年の札幌市長選挙では、候補者が誰も法定得票の25%を獲得できなかったため再選挙が実施され、荒井は再選挙で上田文雄の選挙対策本部長を務めた(上田は再選挙で当選)。第43回衆議院議員総選挙では再び北海道3区で石崎を破り、3選(石崎も比例復活)。 2005年の第44回衆議院議員総選挙では、北海道3区で自民党の石崎に敗れるも、重複立候補していた比例北海道ブロックで復活し、4選。2006年3月、PSE問題を巡る混乱を受けて結成された党・PSE法議員懇談会の会長に就任。同年4月、堀江メール問題による執行部総退陣に伴い、民主党国会対策委員長代理に起用された。2007年、衆議院議員を辞職し、北海道知事選挙に民主・社民・新党大地推薦で出馬したが、現職の高橋はるみに敗れ、落選。 2009年、第45回衆議院議員総選挙に北海道3区から出馬し、自民党の石崎に比例復活を許さない大差をつけ、国政に復帰(石崎は落選後、そのまま政界引退を表明した)。選挙後に発足した鳩山由紀夫内閣で内閣総理大臣補佐官に任命された。2010年6月、菅内閣で内閣府特命担当大臣(経済財政政策・消費者及び食品安全)、「税財政の骨格や経済運営の基本方針等について企画立案及び行政各部の所管する事務の調整(国家戦略局)〔「人事異動」『官報』号外特17号、国立印刷局、2010年6月8日、1面。〕の国務大臣に任命され初入閣したが、自身の事務所費の不適切な支出を追及され、菅第1次改造内閣では再任されず、事実上更迭された。同年、衆議院内閣委員長に就任。2012年、衆議院災害対策特別委員長に就任。 2012年の第46回衆議院議員総選挙では、北海道3区で自民党新人の高木宏壽に敗れたが、重複立候補していた比例北海道ブロックで復活し、6選。選挙後、衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長に就任。 2014年の第47回衆議院議員総選挙では、北海道3区で自民党の高木に再び敗れたが、重複立候補していた比例北海道ブロックで復活し、7選。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「荒井聰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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