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荒尾氏(あらおし)は、日本の氏族の一つ。尾張国知多郡(現在の愛知県東海市)より起こり、江戸時代には米子城城代職を務めた氏族が著名。 == 歴史 == 現存する文書〔荒尾宗顕書状(嘉暦2年(1327年)の土地譲渡書など。妙興寺文書として愛知県一宮市博物館で収蔵)およびその子、荒尾泰隆の寄進状(応安5年(1372年)。京都・大徳寺文書)など。「東海市史」通史編(1990年)144項から146項〕から、鎌倉幕府の御家人としての荒尾氏が、南北朝期に荒尾郷および尾張国中島郡にその諸領をもっていたことが推定されている。この一族が高階氏を名乗っていたのに対し、戦国期に知多郡の木田城を本拠とした荒尾空善、その娘婿善次に始まる荒尾家は、後に在原氏を称した(実際は土豪と伝わる)。寛政呈譜には「先祖より代々知多郡の荒尾村に住せしより屋号とす」とある。 末裔に鳥取藩主池田家に仕えた家老家があり、1つは但馬守成房を祖とし、米子城城代を務めた家(荒尾但馬家、米子荒尾家)、1つはその弟志摩守隆重を祖とし、元和一国一城令で廃城となった倉吉城(打吹城)下に陣屋を構えてこの地を領した家(荒尾志摩家、倉吉荒尾家)である。 鳥取・岡山二つの大藩は共に池田輝政を祖にもつが、その輝政の母(善応院)は荒尾善次の娘である。善次の子成房を父にもつ鳥取藩家老「成利(荒尾但馬)」「山就(嵩就。荒尾志摩。叔父志摩守隆重の養子となる)」は輝政の従兄弟にあたる。それゆえ鳥取藩代々の藩主は両荒尾家に、その所領支配に関して全権を委任し、幕末に至る200年以上の間、米子と倉吉の地は、荒尾家によって統治された(成利が米子城代となったのは寛永9年(1632年)である)。これを自分手政治という。 鳥取県米子市のJR境線博労町駅を降りて左側の坂道をのぼると荒尾但馬家一族の菩提寺黄檗宗「了春寺」(同市博労町)がある。荒尾氏の墓碑群のなかに異質の新しい墓碑が目立っている。男爵荒尾之茂と縁組した冷泉家22代当主冷泉為系の長女須賀子の墓である。墓所の前には2人が読んだ歌碑が建っている。 *ゆめかとも思う許りに故郷の 天守のあとに交す盃 之茂 *天主台のほりてみれはきりはれて なみちはるかに隠岐のしまみゆ 須賀子 なお荒尾志摩家の墓所は倉吉市仲ノ町、打吹山の西中腹にあり、ふもとにはその菩提寺曹洞宗「満正寺」(同鍛冶町1丁目2948)がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「荒尾氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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