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荻原源八郎 : ウィキペディア日本語版
荻原乗秀[おぎわら のりひで]
荻原 乗秀(おぎわら のりひで、?〔『佐渡国略記』では元禄9年(1696年)生まれとなっているが、村井淳史は『寛政重修諸家譜』・『柳営日次記』とも元禄5年に綱吉に御目見したと記載されているため、これを誤りとしている。同様に『佐渡国略記』で享年40とされているのも間違いだと、村井の『勘定奉行荻原重秀の生涯』には記されている。〕 - 享保20年4月26日1735年6月16日))は、江戸幕府旗本。通称は源八郎。勘定奉行を務めた荻原重秀の子である〔母は「某氏」となっており、重秀の正妻の子ではない。〕。妻は中山下野守直好の娘で、村上彦太郎義愈の娘を後妻に迎えている〔『新訂 寛政重修諸家譜』第十 143頁〕。
== 略歴 ==

* 元禄5年(1692年)11月1日に時の将軍・徳川綱吉に御目見を果たす〔。
* 父・重秀の死後、正徳4年(1714年)3月15日に重秀の私曲を理由に3000石を減石され越前国坂井郡の内の700石を相続。小普請入りし謹慎の身となるが翌5年(1715年)9月26日に許される〔。
* 享保7年(1722年)5月3日、上総国東金領に赴き、新規に開墾する地を調べる仕事を命じられる。8月7日には御用を務めた褒美として時服2領と黄金2枚を下賜される〔。
* 享保7年7月13日に、南町奉行大岡忠相〔本来は代官は勘定奉行に所属するべき役職であるが、大岡は「関東地方御用掛」を兼帯しており、関東の新田開発や治水事業などの農政も掌っていた。なお、当初は北町奉行の中山時春も地方御用掛を拝命しており乗秀は中山の支配下でもあったが、中山が町奉行を辞した後は地方御用掛は大岡1人の専管となる。〕所属の代官〔武蔵国の多摩郡・入間郡・高麗郡新座郡の4郡82ヵ村(現・東京都多摩地域、埼玉県南部)、石高にして1万石以上の地を管掌。〕となり、5万石支配を命じられ、同じく大岡支配下の代官・岩手信猶とともに役料300俵ずつを与えられる〔『撰要類集』。〕。
* 享保14年(1729年)11月24日、支配所である武蔵国入間郡下奥富村(埼玉県狭山市)の名主の不正が発覚したことにより拝謁を留められるが同年12月27日に許される〔〔この一件は、外部の人間により発見されればその罪はさらに重くなっていたが、同じ大岡忠相支配の役人である町奉行所の同心からの告発であったために軽い罪で済んだと『寛政重修諸家譜』に記されている。〕。
* 享保19年(1734年)正月19日、江戸城西丸の御納戸頭に任ぜられる。同年2月15日に佐渡奉行となり、4月22日には布衣の着用を許される〔。5月26日に佐渡奉行所に到着。もう1人の佐渡奉行・萩原美雅と交代する。
* 享保20年4月11日、「左右共不自由」となり、医師の投薬によりいったんは回復するが、18日に再度発病〔『佐渡国略記』。〕。4月26日、在任中に佐渡の地にて死去。同地の本典寺に葬られる。法名は日到〔。なお、この年の閏3月1日に、乗秀の妻・かずも死亡している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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