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荻原重秀 : ウィキペディア日本語版
荻原重秀[おぎわら しげひで]
荻原 重秀(おぎわら しげひで、万治元年(1658年) - 正徳3年9月26日1713年11月13日))は、江戸幕府旗本勘定奉行を務め、管理通貨制度に通じる経済観を有し、元禄時代に貨幣改鋳を行ったことで有名。通称は彦次郎、五左衛門。官位は従五位下近江
== 経歴 ==
旗本・荻原十助種重(200俵)の次男として江戸に誕生。母は横松氏の娘。武鑑に本国甲斐とあるのは、荻原家始祖の荻原昌勝1461年-1535年)が武田氏より分家して甲斐国山梨郡荻原村に移り住んだためである。『甲陽軍鑑』によれば、昌勝は国境の秩父口防備にあたり、武田信虎晴信の2代にわたって弓術兵法を教えたと言われ、武田二十四将の1人に加える異説もある人物とされる。武田氏滅亡後は三世甚之丞昌之が徳川氏に仕えて旗本となる。爾来、荻原家本家は八王子に留まり分家の1つと共に代々八王子千人頭を勤めたが、他の分家はみな江戸に住まい、それぞれ旗本として明治維新を迎えた。荻原種重家の家督は兄の荻原左兵衛成重が継ぎ、重秀は別家を興した。
延宝2年(1674年)10月26日に幕府勘定方に列し、11月7日に将軍・徳川家綱にはじめて謁見。延宝3年(1675年)12月21日、切米150俵を支給された。延宝7年(1679年)12月3日、先の五畿内検地の功績で時服二領羽織一領を与えられた。天和元年(1681年)に上野沼田藩主・真田信利改易にされた際にはその郷村の受け取りのために沼田へ赴いた。天和3年(1683年)10月11日、勘定組頭に就任。12月21日に100俵を加増。
貞享4年(1687年)9月10日、勘定頭3名の罷免により勘定頭差添役(のちの勘定吟味役)に任命され、さらに300石を加増され、先の250俵の切米も領地に代えられて都合550石を領した。12月25日には布衣の着用を許された。元禄2年(1689年)8月21日、200石加増(都合750石)。元禄3年(1690年)10月7日には佐渡奉行に任ぜられた。
元禄8年(1695年)12月22日、1,000石の加増(都合1,750石)。元禄9年(1696年)4月11日、勘定奉行に就任し、250石を加増(2,000石)。12月22日に従五位下近江守に就任した。元禄11年(1698年)12月21日にはさらに500石の加増があり(都合2,500石)、元禄12年(1699年)4月には長崎へ赴いている。元禄16年(1703年)2月にも稲垣重富の副使として京都大坂長崎などへ赴いている。宝永2年(1705年)12月11日に700石加増される(都合3,200石)。
宝永6年(1709年)に将軍・徳川綱吉が死去し、徳川家宣が6代将軍となると、新井白石などの家宣近臣達との関係が悪化。宝永7年(1710年)4月25日、張り紙値段を勝手に引き下げようとして、将軍・家宣への拝謁を禁止されているが、わずか4日後の29日には許されている。12月11日には500石の加増を受けており、都合3,700石を領した。さらに正徳元年(1711年)7月18日にも評定所での精勤ぶりをもって熨斗縮絹紬、越後縮などを与えられている。
しかし新井白石の憎悪は深く、度重なる弾劾を受けて、病没寸前の家宣はついに折れ、正徳2年(1712年)9月11日に勘定奉行を罷免された。嫡男の荻原乗秀には辛うじて越前国坂井郡で700石の相続が許された。正徳3年(1713年)9月26日に死去。絶食して自害したとも言われる。東京都台東区谷中の長明寺に葬られた。法名は日秀居士。妻は青柳勘右衛門道孝の娘、後妻は高木忠右衛門定清の娘。なお嫡男・乗秀の母はそのいずれもでなく、某氏の娘。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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