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荻野吟子 : ウィキペディア日本語版
荻野吟子[おぎの ぎんこ]

荻野 吟子(おぎの ぎんこ(本名:荻野ぎん)、1851年4月4日嘉永4年3月3日) - 1913年大正2年)6月23日)は、近代日本における最初の女性の医師である。女性運動家としても知られる。なお、日本人女性初の国家資格を持った医師であるが、医術開業試験制度がなかった時代から、榎本住1816年 - 1893年)ほか何人かの女性医師が開業していた。西洋医学を学んだ女性医師としてはシーボルトの娘・楠本イネ1827年 - 1903年)がいる。
==生涯==

*1851年嘉永4年) - 武蔵国幡羅郡(はたらぐん)俵瀬(たわらせ)村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬、2005年平成17年)9月30日までは大里郡妻沼町大字俵瀬)に、代々苗字帯刀を許された名主の荻野綾三郎、嘉与(かよ)の五女(末娘)として生をうける。
*1867年慶応3年) - 望まれて武蔵国北埼玉郡上川上村(現在の熊谷市上川上)の名主の長男稲村貫一郎結婚
*1870年明治3年) - 夫からうつされた淋病がもとで離婚。上京し順天堂医院に入院し婦人科治療をうけるが、そのとき治療にあたった医師がすべて男性で、男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験から、女医となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたいという決意により、女医を志す。
*1873年(明治6年) - 上京し、国学者で皇漢医の井上頼圀(よりくに)に師事。頼圀より後妻に望まれる。
*1874年(明治7年) - 甲府内藤満寿子の私塾の教師となる。
*1875年(明治8年) - 東京女子師範学校お茶の水女子大学の前身)の一期生として入学。
*1879年(明治12年) - 首席で卒業。同学校の永井久一郎教授紹介により軍医監で子爵石黒忠悳(ただのり)に女医の必要性を説き、石黒を介して、典薬寮出身で侍医高階経徳が経営する下谷練塀(ねりべい)町(現在の秋葉原)の私立医学校・好寿院に特別に入学を許される。男子学生に混じり様々ないじめや苦労の艱難辛苦を舐めつつ3年間で優秀な成績で修了する。しかし、かつての日本に女医は一人もおらず前例がないことにより、東京府医術開業試験願を提出したが却下、翌年も同様であった。つづいて埼玉県にも提出したが同じ結果だった〔この頃のことを、吟子は『女学雑誌』354号にこのように書いている。
:「…願書は再び呈して再び却下されたり。思うに余は生てより斯の如く窮せしことはあらざりき。恐らくは今後もあらざるべし。時方に孟秋の暮つかた、籬落の菊花綾を布き、万朶の梢錦をまとうのとき、天寒く霜気瓦を圧すれども誰に向かってか衣の薄きを訴えん。満月秋風 独り悵然として高丘に上れば、烟は都下幾万の家ににぎはへども、予が為めに一飯を供するなし。 …親戚朋友嘲罵は一度び予に向かって湧ぬ、進退是れ谷まり百術総て尽きぬ。肉落ち骨枯れて心神いよいよ激昂す。見ずや中流一岩の起つあるは却て是れ怒涛盤滑を捲かしむるのしろなるを。」
この文面より吟子の万策尽きた様子が伺われるが、開業への思いは強く最後の手段として外国での資格取得も考えていたようである。 
前例がない理由で開業試験願を却下され窮地に陥っている吟子に同情した実業家高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して内務省衛生局局長、長与専斎を紹介。吟子は好寿院に入る際にいろいろの書物を捜した末『令義解』という奈良時代の書物に、日本でも古代から女医らしい者があったことを突きとめ、このことを強調し請願をした。併せて高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して、古代からの女医の史実を調査してもらい、この資料を添えて長与局長への紹介状を吟子に持たせた。吟子に依頼を受けた石黒忠悳も、責任があるので衛生局へ行き、局長に会って頼んだところ、女は困ると言われ「女が医者になってはいけないという条文があるか。無い以上は受けさせて及第すれば開業させてもよいではないか。女がいけないのなら、『女は医者になる可らず』と書き入れておくべきだ」と食いさがったそうである。こうして吟子と支援者との熱意にうたれた長与局長の計らいで「学力がある以上は、開業試験を受けることを許可して差し支えない」ということになり、1884年明治17年)に「女医公許」が決定しようやく受験が認められる。〕。
*1884年(明治17年)9月 - 医術開業試験前期試験を他の女性3人と受験、吟子1人のみ合格。
*1885年(明治18年)3月 - 後期試験を受験し合格。同年5月、湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業。34歳にして、近代日本初の公許女医となる。女医を志して 15年が経過していた。そのときすでに父はもとより、母も前月に他界していた。吟子のことは新聞や雑誌で「女医第一号」として大きく扱われる。診療所は、繁盛し場所が手狭なため、翌年下谷に移転する〔開業当初は第1号女医と新聞や雑誌にもてはやされ、一時は患者にあふれたものの、当時は中産階級以下の者は医者にかかることなく祈祷師民間療法に頼る時代で、また保険医療もなく、たとえ患者として受診した者に対しても、高額になる医療費を全ての者に全部支払ってもらうことなど出来ない時代であった。その上、女性医師は信頼できないという者が多く、医業では成功しなかったとされる。しかし、女性に対して医術開業試験への門戸を開いたという意味で、荻野は重要な人物である。〕。
*1886年(明治19年) - 海老名弾正から『日本開化小史』の著書で有名な田口卯吉らとともにキリスト教の洗礼を受ける。キリスト教婦人矯風会にも参加し、その風俗部長に就任するとともに、廃娼運動にも取り組む。
*1888年(明治21年) - 大日本婦人衛生会幹事。
*1890年(明治23年)11月25日 - 39歳の時、13歳年下の同志社の学生で、新島襄から洗礼を受け敬虔なキリスト教徒だった志方之善(しかたゆきよし)と周囲の反対を押し切り再婚する。
:キリスト教や理想社会を求める互いの熱意に共感し合って幸せな新婚生活であったのも束の間、夫の之善はキリスト教徒の理想郷をつくるという信念から北海道へ渡る決意を吟子に告げる。
*1891年(明治24年) 5月 - 之善は同志とともに利別原野開拓のために吟子を残し単身で渡道するが、現地の状況は厳しく冬季を前に、一旦離道した。
*1892年(明治25年) - 之善、再び渡道し利別原野のイマヌエル(今金町)開拓をつづけた。北海道の密林と原野を開拓して理想郷を創造するというこの仕事は、実際には困難を極め、さまざまな経緯はあるが、結果的には之善の試みは挫折に終る。之善は国縫のマンガン鉱の開発にも失敗に終わることになる。
*1896年(明治29年) 5月 - 吟子は之善のいるイマヌエル(今金町)へ渡り之善と同居する。この時点では、吟子は開業をしていない。
*1897年(明治30年)- 之善は国縫の鉱山開発に見切りをつけ、利別での伝道に専念し、吟子は海辺の瀬棚の会津町(現 本町の一部)で診療所を開業する。(開業地には、後に荻野吟子開業の地碑が建立された。)
*1903年(明治36年)- 之善は京都同志社へ再入学し相国寺に隣接する寄宿舎に移り、吟子は札幌(南1条西5丁目1番地)へ一時転住する。吟子は新聞に札幌での開業広告を掲載するが、実際に診療を行ったかは明確ではない。
*1904年(明治37年)- 之善は同志社大学を卒業して牧師として北海道浦河教会に赴任した。
*1905年(明治38年)- 之善は、牧師の職を辞し、瀬棚にもどり自給伝道を志すも、病を得て9月23日瀬棚で逝去。吟子はその後も 3年間瀬棚で過ごし、診療をつづけた。
*1908年(明治41年) - 帰京、本所区小梅町に医院を開業し晩年を送る。
*1913年大正2年) - 肋膜炎にかかり、ついで脳溢血により逝去した。62歳。墓所は東京都の雑司ヶ谷霊園

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「荻野吟子」の詳細全文を読む



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