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荻野山中陣屋(おぎのやまなかじんや)は、相模国愛甲郡中荻野村(現在の神奈川県厚木市下荻野)にあった陣屋で、荻野山中藩の藩庁である。 == 概要 == 小田原藩第五代藩主大久保忠朝の次男教寛は、相模国内に六千石分封され、分家となった。 その後、駿河国駿東郡五千石の加増を受け、一万一千石になり諸侯に列した。この頃、陣屋は駿河国駿東郡松長村(現在の静岡県沼津市)の松長藩内に置いていた。 荻野山中藩となったのは五代教翅のときで、陣屋を移したのは天明3年(1783年)である。陣屋を移したのは、参勤交代の費用を抑える狙いもあったとみられている。 陣屋の敷地は約2万平方メートルに及んだ。北部から南部に延びる低い台地にかまえた。三方を土塁に囲まれている。敷地の中心に御殿を配し、稲荷社が鬼門の方角に配された。西側には馬場などがあった。しかし慶応3年(1867年)に薩摩藩の浪士などにより、焼き討ちにあい焼失してしまった。 1871年(明治4年)に荻野山中県が廃止された後に、陣屋跡の一部は民間に払い下げられた。残地は官地となったが、それも1932年(昭和7年)には払い下げられることになった。(その際に、史跡を記念して「山中城址」碑が建立された。)なお、碑がたっている一角は長屋跡である。 厚木市は、1970年(昭和45年)に跡地を史跡に指定。その後、発掘調査により、建物の位置等が確認された。跡地のうち3300平方メートルが「山中陣屋跡史跡公園」として整備され、1996年(平成8年)に開園となった。同公園は、地下の史跡を保護するために盛り土が行われ、地上の構造物は最小限にとどめられている。また、稲荷社や湧水が同位置に残されている。 なお、陣屋焼き討ちにもかかわらず、厚木市王子の曹洞宗福伝寺に陣屋裏門と伝わる山門が残る。ただし、1989年(平成元年)に大改修が行われており、屋根は銅板葺きである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「荻野山中陣屋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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