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莫多婁貸文[ぼたろう たいぶん] 莫多婁 貸文(ぼたろう たいぶん、生年不詳 - 538年)は、中国の東魏の軍人。本貫は太安郡狄那県。 ==経歴== 531年、高歓の起兵に従い、伏波将軍・武賁中郎将・虞候大都督に任ぜられた。爾朱兆を広阿に討って、功績により、前将軍を加えられ、石城県子に封ぜられた。532年、韓陵の戦いで爾朱氏を破り、爵位は侯に進んだ。爾朱兆を赤谼嶺に追撃した。爾朱兆が追いつめられて死ぬと、貸文はその遺体を収容した。左廂大都督に転じた。534年、高歓と孝武帝の間が険悪となると、孝武帝は賈顕智を派遣して石済を守らせた。高歓は貸文に精鋭3万を率いて進発させた。貸文は竇泰らと定州で合流すると、ともに石済におもむき、賈顕智を撃破した。東魏の天平年間、貸文は晋州刺史に任じられた。汾州の胡族の乱を高歓が討つと、貸文は先鋒をつとめて、戦功を挙げた。凱旋すると、褒賞を受けて、汾陝東雍晋泰五州大都督となった。後に太保の尉景とともに東雍州と南汾州を攻めて、これを落とした。 538年、車騎大将軍・儀同・南道大都督に任じられ、行台の侯景とともに独孤信を金墉城に攻撃した。宇文泰の軍が函谷関を出ると、侯景と高昂は軍旅を整えて、西魏軍の来るのを待とうとした。貸文は部下を率いて西魏軍の前衛を攻撃しようと求めたが、侯景らは許可しなかった。貸文は命令を聞き入れず、軽騎1000を率いて前方に斥候に出て、西方の瀍澗を過ぎるところで、西魏軍と遭遇し、戦没した。并肆恒雲朔五州軍事・并州刺史・尚書右僕射・司徒公の位を追贈された。 子に莫多婁敬顕があった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「莫多婁貸文」の詳細全文を読む
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