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菅江真澄 : ウィキペディア日本語版
菅江真澄[すがえ ますみ]

菅江 真澄(すがえ ますみ、宝暦4年(1754年) - 文政12年7月19日1829年8月18日))は、江戸時代後期の旅行家、博物学者。生まれは、三河国渥美郡牟呂村字公文(現在の豊橋市牟呂公文町)と伝えられる。本名は白井秀雄、幼名は英二といった。知之(ともゆき)、白超とも名乗った。
== 生涯・人物 ==
父は秀真、母は千枝か。吉田町札木の植田義方〔真澄は義方に旅先から「陸奥真野のススキ」「松前の鶴の羽」「小樽内の蝦夷のマキリ」「ロシアの銭」などを送っている。〕に和学、和歌を学んだ。1770年頃から尾張藩薬草園につとめ、1780年生家に戻った。その間丹羽嘉信について漢学・画技を、浅井図南から本草学・医学を修得した。各地をしばしば巡って紀行を執筆。一説には、これには植田義方というスポンサーがあり、彼が書いたものを本にして出していたともいう。1783年に30歳で故郷を出奔。刃傷などやましい事があったのではとも推測されるが、その理由は不明。故郷を離れてからも、郷里の知人に音信を知らせたりしているので、余程の事件があったものとは思えない。いずれにせよ、以来信越東北から蝦夷地にいたる長い旅を重ねる。享和元年(1801年)に再度の秋田入りをした際には白井真隅と名乗ったが、文化7年(1810年)の日記『氷魚の村君』(ひおのむらぎみ)からは菅江真澄と名乗っている。
旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。今日で言う文化人類学者のフィールドノート野帳)のようなものであるが、特にそれに付された彼のスケッチ画が注目に値する。彩色が施されているものもあり、写実的で、学術的な記録としての価値も高い。彼は本草学をもとにして、多少の漢方の心得もあったという。著述は100種200冊ほどを数え、「菅江真澄遊覧記」と総称されている。この名前で平凡社の叢書・東洋文庫に収録され、2000年以降、同社の平凡社ライブラリーから5巻本として刊行されている。形態は日記・地誌・随筆・図絵集などとなっているが、内容は民俗・歴史・地理・文学・考古・宗教・科学など多岐にわたっており、特に近世後期の民衆の生活を客観的に記していることに特徴がある。
=== 蝦夷地へ ===
菅江真澄は三河を出奔して1783年5月から1784年6月まで信濃国本洗馬村に逗留。その後、越後国を経て同年9月には出羽国庄内に至る。1785年さらに北上し、蝦夷地を目指したが天明の飢饉のため断念し奥州平泉をめざし南下した。平泉周辺にしばらく滞在した後、1788年再度蝦夷地への渡航を決意し北上した。念願の蝦夷地では、松前藩の庇護のもと各地を数年間漫遊し、数多くの記録を残した。1792年に蝦夷地を出て南部藩田名部に迎えられ、ここで数年を過ごす。1795年南部藩を去り、津軽藩に入る。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「菅江真澄」の詳細全文を読む



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