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菅野覚兵衛[すがの かくべい]
菅野 覚兵衛(すがの かくべえ、天保13年旧10月21日(1842年11月23日) - 明治26年(1893年)5月30日)は、幕末の志士、海援隊隊士、明治時代の軍人である。 旧名 千屋 寅之助(ちや とらのすけ)〔このほか「山本謙吉」・「千頭義郎」とも名乗る〕。妻は起美(君江、坂本龍馬の妻・お龍の妹であるため、龍馬とは義兄弟にあたる)。 ==経歴==
===維新前=== 土佐藩の庄屋・千屋民五郎の三男として和食(わじき、現安芸郡芸西村和食)に生まれる。病弱な兄に代わり庄屋業を代行していたが土佐勤王党に加盟し勤王活動を始める。文久2年(1862年)、山内容堂を警護する五十人組に参加し上京する。その時坂本龍馬らともに勝海舟の弟子となる。勝の進言によって幕府が神戸に設置した神戸海軍操練所にも参加した。 しかし、禁門の変の影響で勝が軍艦奉行を罷免され、その影響で神戸海軍操練所が閉鎖されると、覚兵衛は龍馬や陸奥宗光ら一部生徒と共に長崎で亀山社中(のちの海援隊)を結成し、物産・武器貿易を行う。また第二次長州征討(四境戦争)では社中の船・乙丑丸(ユニオン号)の艦長となって実戦に加わり長州藩海軍を支援する。その後も海援隊隊士として活躍するが慶応3年(1867年)11月に京都の近江屋で龍馬が暗殺される。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菅野覚兵衛」の詳細全文を読む
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