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菱川師房[ひしかわ もろふさ] 菱川 師房(ひしかわ もろふさ、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。 == 来歴 == 菱川師宣の長男。俗称は吉左衛門、後に父師宣と同じ吉兵衛を名乗る。父とともに江戸の村松町二丁目に住んでいたとも、または橘町に住んでいたともいわれ、一説にこの2ヶ所は同一の場所を指すという。ただし貞享4年(1687年)刊行の『江戸鹿子』第六巻には「堺町横町 菱川吉兵衛」、その次に「同 吉左衛門」とある。「菱川吉兵衛」は師宣、「吉左衛門」は師房のことである。 貞享から元禄の頃にかけて版本の挿絵や肉筆画を残す。父師宣より絵を学んだと見られ、画風は師宣風に忠実だが、それよりも巧緻で繊細であると評されている。枕絵も描いたといわれるが確認されていない。肉筆画の代表作としては「三美人図」(出光美術館所蔵)、「美人遊歩図」(浮世絵太田記念美術館所蔵)、「見返り美人図」(奈良県立美術館所蔵)などがあり、「美人遊歩図」と「見返り美人図」の人物の衣装には大和絵風の細密な色紙絵があしらわれている。何れも画風は父の風を承けて形式的に整備した師房の真摯で誠実な作風を良く示している。殊に「美人遊歩図」は均一な線で引かれた衣紋線が人物のフォルムを的確に写し出し、衣服の模様書きも丹念で、かつ気品と風格に富む作品に仕上がっている。 元禄7年(1694年)に師宣が死してのち菱川派は衰滅し、師房もついには画業を捨て紺屋に転職したといわれる。また師房には重嘉と弥右衛門というふたりの息子がいたが、いずれも絵師にはならなかった。師房がいつ、どこで没したかは不明である。菱川家に関わる史料からは、重嘉と弥右衛門だけが師宣の故郷安房国保田に戻り、重嘉は同地で紺屋を営む師宣の弟佐次兵衛の跡を継ぎ、佐次兵衛を名乗って紺屋を家業としたことが伺えるが、師房の命日や墓所などについて定かに知れるものは無い。 なお師房の没年については、林美一は存林寺の過去帳に記される「孤宿巍峰」の戒名が師房のものであるとし、その「孤宿巍峰」の忌日が享保2年(1717年)7月12日と記されることから、師房の没年を享保2年としているが、『鋸南町史』の編纂に関わった川崎芳郎は「孤宿巍峰」とは師房のことではなく、重嘉の戒名としている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菱川師房」の詳細全文を読む
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