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落ち武者狩り(おちむしゃがり)は、日本の戦国時代に百姓が自分の村の地域自衛の一環として、敗戦で支配権力が変わった時に敵方の逃亡武将(落武者)を探して略奪し、殺害した慣行である〔『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』藤木久志 P.178・179 朝日選書 2005年〕。武将の鎧や刀など装備を剥いで売ったり金品など得るためでもあり、「落ち武者襲撃慣行」ともよばれる〔『戦国の世 日本の歴史〈5〉』今谷明 P.153 岩波ジュニア新書 2000年〕。 室町時代初めにすでに原型が見られ、室町中期には京都周辺で僧兵の落人狩りが幕府の呼びかけでなされた。敗者を「法の外の人」とみる中世以来の習慣の存在と、村の問題は自分たちで解決する自力救済の考えに基づく成敗権と武力行使が根底にあり〔、特に戦国時代には慣行として許され、地域では惣村の力が強く慣行には手がつけられない面があり、広く展開し、豊臣秀吉の「惣無事令」から始まる身分固定・成敗権の否定を伴う一連の政策まで存続していた。 == 概要 == 室町時代、没落したり後ろ盾がなくなった公家や武家は落ち武者として扱われ、その地域の町人に襲われた。また、失脚した武家の屋敷が略奪に遭った。さらに流罪となり流刑先に移動している罪人も落ち武者とみなされ、対象となった〔『喧嘩両成敗の誕生』清水克行 第4章・P.92 講談社選書メチエ 2006年〕。 この後、1434年(永享6年)10月4日、室町幕府第7代将軍足利義勝の時代に、比叡山延暦寺の僧兵が日吉神社の神輿を担いでの強訴に及んだ際、幕府は幕府軍が守備しない京都周辺の伏見荘・山科荘・醍醐荘の荘園の村々に、都合のいい所で待ち伏せて「落人狩り」で討って装備を剥いでほしいと要請する。地の利がある村人が人の通りそうな山野に夜も昼も待ち伏せて馬や武具を渡せと襲い、抵抗すれば殺し、降参したら身ぐるみを剥いだ。地域のことになると動くが、それ以上のことには関わらないし軍の指揮にも入らないという原則が、すでに確立していた。この時の開始の様子は、荘内の寺の早鐘を鳴らし、半具足の軽装で約300人が集結したら集会で作戦を練り、戦闘名簿に名前を記入し、やがて周囲の村からやってきた人も村ごとに記入した。熟練した慣れた対応で、名簿を作るのも当時の武士の先陣作法ながらきちんとこなし、この時点で村の武力体制がほぼ機能していた〔『戦国の村を行く』藤木久志 P.62-71、97-99 朝日選書 1997年〕。 戦国時代には、百姓は農村で名字を持ち帯刀する「おとな百姓」と目下の「子百姓」の2種類の階級に分かれ、農業は「子百姓」に任せて「おとな百姓」は雑兵浪人として戦争への参軍と戦闘、そして戦場での略奪と落ち武者狩りがほぼ専業であり、宮崎ではおとな百姓が村の3分の1になった例もある〔『刀狩り 武器を封印した民衆』藤木久志 P.29・30 岩波新書 2005年〕。当時は敗戦して敗残兵となると武士は身分にかかわらず落ち武者狩りの対象とされ、たとえそれまでは支配地でも、地域一帯が落ち武者狩りの百姓勢の跋扈する危険地帯となり、逃げる場合でもこの危険に直面し、これら百姓雑兵たちに捜索され、見つかると襲撃され、殺害・略奪された。 これが許されていたのは、中世以来、掠奪慣行と自力救済の考えが社会にあり、落ち武者などの敗者は法の保護から外れる存在で、「法外人」から財産や命まで奪っても何も悪くないと考えられていた〔。また、自力救済としては、室町時代から自立した百姓たちによる惣村と呼ばれる自治村落ができ、こうした惣村では村内部の問題や他の惣村との水争いや草場、山境などの生活に不可欠で対立する紛争解決に領主など支配層を介入させず、村の安全や権益は自分たちで守る自力救済の処置権限である「自検断」を使い、時には他村と武力紛争となり、戦いの先頭で力のある若者が長老衆と対抗できる大きな発言力を持っていた〔〔『戦う村の民俗を行く』藤木久志 P.6 朝日選書 2008年〕。村の盗難などの罪人の現行犯は村の若者が処刑するという暴力的な自検断の成敗権の慣習があり、人を殺す権限があった。物を盗んだ母子とも若者たちが即決で沙汰して殺した例があり、戦国時代の末期の初期の羽柴秀吉時代の法でも認めていた〔『土一揆と城の戦国を行く』 藤木久志 P.24-27 朝日選書 2006年〕。これが外に対しては襲来する雑兵たちに対しての防御となり、勝手に侵入するよそ者と戦って排除し、抵抗すれば殺す体勢がある。その一環として、落ち武者狩りは行われていた〔。 特に、1582年(天正10年)6月13日、山崎の戦い後に起きた、明智光秀の小栗栖(前述した旧・伏見荘の1村)または山科または醍醐での落ち武者狩りの百姓による鑓あるいは打ち殺し(『多聞院日記』、『大かうさまくんきのうち』)による殺害が有名である。これに先立つ本能寺の変で、徳川家康一行が堺から三河まで脱出した際、その道中で落ち武者狩りによる襲撃を危惧していたが、軽装備ながら34人と警護がある程度つき〔『真説 本能寺』桐野作人 p.218・219 学研M文庫 2001年〈引用史料は『石川忠総留書』〉〕、酒井忠次・井伊直政・本多忠勝など歴戦の武将もいて落ち武者狩りの一揆を脅したことに加え、所持していた金品を与えたりして通過した(神君伊賀越え)〔『戦国戦記 本能寺の変・山崎の戦』高柳光寿 P.65 春秋社 1958年〈フロイス『日本史』『日本耶蘇会年報』、日本側史料でも家康が多額の金銀を部下に配分したとある『石川忠総留書』〉〕。家康一行を疑いかなり距離を置いていた穴山信君と少数の配下が、山城国綴喜郡の木津川河畔の渡し(現在の京都府京田辺市の山城大橋近く)にたどり着いた時に、落ち武者狩りの百姓勢に追いつかれ殺害された〔『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変・謀略説を嗤う』鈴木眞哉、藤本正行 P.175-177 洋泉社新書y 2006年〕〔『信長と家康 清須同盟の実体』谷口克広 P.264-270 学研新書 2012年〕。 また、ルイス・フロイスによると、戦国末期の島津家と大友家の戦いでは内戦状態となり、奴隷狩りと略奪が横行する中で百姓も反撃のために武装して戦い、落ち武者狩りとそれ以外の領主の兵でも、少数で仲間から離れていると追剥にあった〔フロイス『日本史』1巻P.296〕。これら落ち武者狩りは、日本中で行われているとある〔『イエズス会日本報告集』Ⅲ-7 P.174〕〔この段『飢餓と戦争の戦国を行く』藤木久志 P.164・165〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「落ち武者狩り」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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