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葉山正雄[はやま まさお]
葉山 正雄(はやま まさお、1925年8月1日 - )は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.472.〕〔''葉山正雄''、''jlogos.com'', エア、2013年2月2日閲覧。〕〔''葉山正雄''、日本映画データベース、2013年2月2日閲覧。〕〔''葉山正雄''、日本映画情報システム、文化庁、2013年2月2日閲覧。〕〔''葉山正雄''、映連データベース、日本映画製作者連盟、2013年2月2日閲覧。〕〔''葉山正雄''、KINENOTE, 2013年2月2日閲覧。〕〔''葉山正雄''、テレビドラマデータベース、2013年2月2日閲覧。〕〔''葉山正雄''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年2月2日閲覧。〕。本名鈴木 正雄(すずき まさお)〔〔。菅原秀雄、青木富夫、横山準、末松孝行、加藤清一とともに同時代の「松竹蒲田の名子役」と謳われた〔。 == 人物・来歴 == 1925年(大正14年)8月1日、神奈川県横浜市に生まれる〔〔〔。 満5歳を迎える1930年(昭和5年)、東京府荏原郡蒲田町(現在の東京都大田区蒲田5丁目)にあった松竹蒲田撮影所(のちに大船に移転、現存せず)で子役になる〔。『腰辨頑張れ』(監督成瀬巳喜男、1931年)、『大人の見る絵本 生れてはみたけれど』(監督小津安二郎、1932年)等に出演した後、1935年(昭和10年)には、京都の入江プロダクションに招かれ、鈴木重吉監督の『貞操問答 高原の巻』『貞操問答 都会の巻』に出演している〔〔〔。菅原秀雄、「突貫小僧」こと青木富夫、「爆弾小僧」こと横山準、「アメリカ小僧」こと末松孝行、あるいは加藤清一(旧芸名加藤精一)とともに同時代の「松竹蒲田の名子役」として重用された〔。同撮影所は、1936年(昭和11年)1月15日、神奈川県鎌倉郡大船町(現在の鎌倉市大船)に新設された松竹大船撮影所(現存せず)に全機能を移転することになり、葉山も大船に異動になり、ひきつづき多くの作品に出演した〔〔〔。十代後半となった第二次世界大戦中も、同撮影所でひきつづき俳優としての活動をつづけ、満19歳のときである1944年(昭和19年)9月14日に公開された、穂積利昌監督の『君こそ次の荒鷲だ』に出演したのが、戦時中の最後の出演記録である〔〔〔。 戦後は、現代劇を製作することになった松竹京都撮影所に異動し、脇役・端役中心であるが、映画出演をつづけた〔〔〔〔〔。1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)の葉山の項には、満23歳となった1948年(昭和23年)8月30日に公開された高木孝一監督の『のらくら海浜騒動』に出演した後は「スクリーンから姿を消した」と記述され、それ以降の記述はないが〔、実際にはその後も少なくとも13年は同撮影所での俳優活動を続けており〔〔〔、満36歳のとき、1961年(昭和36年)11月1日に公開された井上梅次監督の『妻あり子あり友ありて』にも出演し、クレジットされている〔。しかしながらそれ以降の出演記録は残っておらず、以降の消息は不明である。2歳年長の突貫小僧こと青木富夫はすでに2004年(平成16年)に満80歳で亡くなっている状況であるが、葉山が存命であれば、現在満歳である。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「葉山正雄」の詳細全文を読む
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