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葛城 文子(かつらぎふみこ、1878年7月29日 - 1945年8月19日〔『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年、「葛城文子」の項。〕)は、日本の女優である。本名は増田 ユキ(ますだ ゆき)である〔。井上正夫のサイレント映画に、1917年(大正6年)に出演し、「日本の映画女優第一号」と呼ばれた花柳はるみよりも2年早く映画女優となった人物である〔。 == 人物・来歴 == 1878年(明治11年)7月29日、東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)に「増田ユキ」として生まれる〔。 旧制・東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)を卒業する〔。満27歳を迎える1905年(明治38年)から、文士劇の舞台に上がる〔。井上正夫の主宰する東京・有楽町の有楽座での女優劇や、井上が製作した連鎖劇等に出演する〔。 1917年(大正6年)、小林喜三郎の小林商会で、井上が主演・監督する映画『毒草』に出演し、映画界にデビューする〔。同作は、天活、日活向島撮影所との3社競作で、葛城の演じた「お仙」の役は、天活版では東猛夫、日活向島版では二島竹松が演じていた〔『日本映画発達史 1 活動写真時代』、田中純一郎、中央公論社、1968年、p.273.〕。当時の映画は、歌舞伎(旧劇)の影響下にあった時代劇も、新派の影響下にあった現代劇も、いずれも男性俳優が務める女形しか出演しておらず、井上の映画も女形を排してはいなかった。新劇運動の流れから、1919年(大正8年)、帰山教正が監督し、花柳はるみが主演した『深山の乙女』まで、女形が混在しない、女優の登場する映画は存在しなかった。 1929年(昭和4年)、松竹蒲田撮影所に入社する〔。翌1930年(昭和5年)2月22日、浅草公園六区の帝国館で公開された、清水宏監督、龍田静枝主演のサイレント映画『紅唇罪あり』に出演した。すでに満51歳となっていた葛城は、同作では、主演の龍田の母親役であった。1936年(昭和11年)の大船への移転まで、蒲田で多くの淑女・母親役を務めた。大船移転後も同様であるが、1941年(昭和16年)には松竹大船撮影所が中華電影と共同製作した、渋谷実監督の『櫻の國』にも出演した。 第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)にも、佐々木康監督の『乙女のゐる基地』、東宝に移籍していた成瀬巳喜男監督の『三十三間堂通し矢物語』に出演したが、同年8月15日の終戦日の4日後、同年8月19日に逝去〔。満67歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「葛城文子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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