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董世祉[とう せし]
董世祉(とう せし、生没年不詳)は、中華民国から中華人民共和国にかけてのカトリック神父。1950年代における中国カトリック教会の“四大才子”(董世祉、張伯達、陳哲敏、沈士賢)の一人でもある。 == 経歴 == 董世祉の原籍は四川省で、上海に生まれ、上海で学業及び修道生活を始め、その後北京に行ってベネディクト会に入会し、山東省のある教区に転入した。自費でスイスに留学して神学を学び、そこで神父になった〔顾卫民:《中国天主教编年史》、第524页、上海书店出版社、2003年4月、ISBN:7-80678-007-6〕。1936年に于斌が司教に任じられた南京教区に加わり、日中戦争中は後方に行って働いた。戦後は上海に戻り、リベリ大司教を助けて天主教教務協進委員会の成立の準備をし、協進会教理講座組組長に任じられた〔阮仁泽、高振农等主编:《上海宗教史》、第750页、上海人民出版社、1989年〕。 1951年6月23日(イエズスの聖心の祝日の主日)に、董世祉は重慶市のカトリック教徒の集会で“”(両方を満足させ、自己を犠牲にする)という演説を発表し、公に霊魂を天主に捧げ、肉体を国家に捧げることを表明した。
そして「リベリ大司教の忠実な走狗」だと批判された〔〕。逮捕されてから間もなく行方不明となった。7月1日、重慶市は天主教青年座談会を開き、董世祉の三自愛国運動に対する言論を批判した。50名余りのカトリック青年信徒が座談会に参加した〔1950-1979年重庆青年运动大事记、1951年〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「董世祉」の詳細全文を読む
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