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蒼梧郡(そうご-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の湖南省南部から広西チワン族自治区西北部にかけての地域に設置された。 == 概要 == 秦が中国を統一した後に蒼梧郡が置かれた。郡治は不明である。秦が滅亡すると、南越国に継承された。 紀元前111年(元鼎6年)、漢が南越国を滅ぼすと、蒼梧郡が置かれた。郡治は広信県に置かれ、交阯刺史部に属した。前漢末には、蒼梧郡は広信・謝沐・高要・封陽・臨賀・端谿・馮乗・富川・荔浦・猛陵の10県を管轄した〔『漢書』地理志下〕。 王莽のときに新広郡と改称されたが、後漢が建てられると、再び蒼梧郡の称に戻された。71年(永平14年)、鄣平県が設置されて蒼梧郡に編入された〔『後漢書』郡国志注〕。 三国呉のとき、蒼梧郡の東北の臨賀・謝沐・馮乗・富川・封陽の諸県を分割して、臨賀郡が置かれた。晋のとき、荔浦県が始安郡に編入された。広信・端渓・高要・建陵・新寧・猛陵・鄣平・農城・元谿・臨允・都羅・武城の12県を管轄した〔『晋書』地理志下〕。東晋から南朝にかけて、蒼梧郡の領域は縮小していった。南朝梁のときに成州が置かれた。 583年(開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、成州は封州と改められた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、封州は蒼梧郡と改称された。郡治は封川県に置かれ、封川・都城・蒼梧・封陽の4県を管轄した〔『隋書』地理志下〕。 621年(武徳4年)、蕭銑が唐に降ると、蒼梧郡は唐の梧州となった。蒼梧・豪静・開江の3県を管轄した。742年(天宝元年)、梧州は蒼梧郡と改称された。758年(乾元元年)、蒼梧郡は梧州と改称され、蒼梧郡の呼称は姿を消した〔『旧唐書』地理志四〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蒼梧郡」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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