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蓑原の合戦(みのばるのかっせん)は、南北朝時代の天授5年/永和5年(1379年)3月1日と3月3日〔通説では天授3年/永和3年に勃発したとする見方があったが、今川方の武将の軍忠状に「島津越後入道」と氏久が出家していることが書かれていて、氏久の出家は天授5年/康暦元年(永和3年、3月22日に改元)閏4月から翌天授6年/康暦2年(1380年)10月にかけての出来事であるため、天授3年/永和3年では矛盾が生じ、軍忠状作成は天授6年/康暦2年に行われ、前年に合戦が行われたことが正しいとする見方が近年に示された。『都城市史』p133 - p134。〕に現在の宮崎県都城市で行われた今川満範と島津氏久の合戦である。 == 経過 == === 前史 === 南北朝時代の九州は南朝の征西大将軍懐良親王と菊池武光の活動で南朝が優勢で、北朝の室町幕府が度々派遣した九州探題も征西府に歯が立たず辞任していった。幕府は建徳元年/応安3年(1370年)に今川了俊を九州探題に任命、了俊は中国地方と九州の国人衆と筑前の少弐冬資・豊後の大友親世・大隅の島津氏久の協力を取り付け大宰府を落とし、菊池武光・武政父子の急死もあって征西府を追い詰めていった。 しかし、永和元年/天授元年(1375年)に了俊が少弐冬資を暗殺(水島の変)、憤慨した島津氏久と大友親世が離反、この混乱に乗じた征西府が探題方を襲撃した。了俊は周防・長門の大内義弘の救援で征西府を撃破、大友親世も義弘の仲介で了俊の元へ戻ったが、氏久と甥の薩摩守護島津伊久は南朝に寝返り、九州統一の大きな妨げとなった。 了俊は島津氏の打倒を図り、氏久と伊久の大隅・薩摩守護職を取り上げ自ら兼帯、翌天授2年/永和2年(1376年)に末子の今川満範を薩摩・大隅・日向の総大将として南九州に派遣、薩摩・大隅・日向・肥後国人衆を集結させ、満範も相良前頼の協力で6月に肥後人吉に到着、8月に日向三俣の高城に入城、9月に氏久の叔父樺山資久が籠もる小山城を落とし、氏久の従弟北郷義久・樺山音久兄弟が籠城している都之城に進軍、天授3年/永和3年(1377年)3月頃に包囲網が整った。 ところが、9月に氏久と伊久が了俊に降伏、了俊は2人に所領安堵と領土返還を約束したが、了俊に従った国人衆は氏久の逆襲を恐れて南九州国人一揆を結成、了俊も国人一揆への対応は幕府への忠節を強調するだけで、具体的な対応を取らなかったため一揆に不信感を持たれ、氏久の一揆方国人への調略も起こり、緊迫していった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蓑原の合戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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