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蔡 瑁(さい ぼう、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将。字は徳珪(『襄陽記』)。荊州襄陽郡の人。父は蔡諷。長姉は黄承彦の妻(『襄陽記』)。次姉は劉表の後妻(『襄陽記』)。姪は劉琮の妻(『後漢書』)。 == 人物 == === 生涯 === 荊州の有力豪族。伯母(父の長姉)は後漢の太尉であった張温の妻である(王先謙の『後漢書集解』)。蔡瑁は、姪が劉琮に嫁いだため、次姉と共にその勢力を増大させ、劉表の側近として重用された(『後漢書』)。 実際に、劉表が荊州に地盤を築く事ができたのは蔡瑁の功績だったといわれる。 『蜀書』「先主伝」の注に引く『魏晋世語』では、蒯越と共に劉備の命を狙ったという記述があるが、東晋の孫盛も批判するように真偽の程は不明である。 劉表の死後、蔡瑁は劉琮を後継者にするために親族(甥?)である張允と共謀し、劉琮の異母兄である劉琦とその支持者である劉備を追い出し、劉琮の後継を実現させた。しかし、その直後に曹操の大軍が攻めてきたため、劉琮が戦わずして降伏した。蔡瑁は曹操に仕え、従事中郎・司馬を経て、長水校尉を歴任した。また、やがて漢陽亭侯に封ぜられるなど高位高官を手にした(『襄陽記』)。これらの背景として、蔡瑁と曹操が旧知の間柄であったからだと言われている(『襄陽記』)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蔡瑁」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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