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蔡鍔[さい がく]
蔡 鍔(さい がく)は、清末民初の軍人。中華民国の初代雲南都督。袁世凱による帝制実施を阻止するため、護国戦争を発動したことでも知られる。原名は艮寅、字は松坡。 == 事跡 ==
=== 清末の事跡 === 幼時から私塾で学び、1898年(光緒24年)に長沙の時務学堂に入学する。梁啓超・唐才常に師事し、変法思想の影響を受けた。光緒25年(1899年)、日本に留学した。1900年(光緒26年)、唐に従って帰国し、自立軍運動に参加した。運動の失敗後に、名を鍔と改め、再び日本に赴く。日本では成城学校と陸軍士官学校で軍事学を学んだ。 1904年(光緒30年)、卒業して帰国する。翌年、湖南教練処幇弁、武備・兵目両学堂の教官をつとめた。同年8月、広西省へ転勤し、新軍総参謀官兼総教練官等をつとめた。1907年(光緒33年)、広西陸軍小学を創始して総弁となる。さらに広西兵備処総弁となった。1908年(光緒34年)4月に広西新練常備軍第1標標統、1910年(宣統2年)に広西混成協協統と歴任している。 以上のように、蔡鍔は広西省で軍事の要職に就き、軍近代化の改革にも積極的だった。しかし広西省の革命派からは、蔡は清朝擁護派と目されたようである。この年の10月に革命派主導の蔡を追放する運動が始まり、蔡は雲南省へ異動することになった。実際には、蔡は黄興との間で交流を持ち、革命派団体の組織に密かに従事するなど、広西省赴任期間でも明確に革命派の姿勢を保っている。その一方で、広西省にある間に、蔡は中国同盟会に入会したとされるが、否定する説もある。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蔡鍔」の詳細全文を読む
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