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蕭 懿(しょう い、? - 500年)は、中国南朝の斉の宗族・武将。字は元達。蕭順之の子で、梁の武帝蕭衍の長兄。次弟に蕭敷がいたが早世した。後に三弟の蕭衍によって、長沙宣武王を追贈された。 == 略歴 == 幼少より評判がよく、最初に安南邵陵王行参軍になり、臨湘県侯の爵位を受け継いだ。太子舍人、太子洗馬、建安王友を遷任して、晋陵太守に就くと公正な裁判をして善政を行い、中書侍郎に任じられた。 493年、持節を授けられ、都督梁、南、北秦、沙四州諸軍事、西戎校尉、梁、南秦二州刺史、冠軍将軍に任じられる。 495年、南伐を起こした北魏の別働隊を率いた拓跋英に漢中に攻め入られる。蕭懿は迎撃に軍を出すが打ち破られ、遂には南鄭を囲まれるも、自ら城を固守し、何とか拓跋英が撤退すると楊元秀を遣わして、逆に北魏の暦城、皋蘭、駱谷、坑池等6つの城を攻め落とした。その後、征虜将軍になり300戸を加増され、督益、寧二州軍事、益州刺史に遷任した。 499年、時の皇帝蕭宝巻(東昏侯)は暗君で、その臣下達は権力闘争に明け暮れた。この朝廷の混乱を重く見た蕭衍は、益州刺史を解任されて行郢州事になっていた蕭懿に張弘策を遣わせて、混乱に巻き込まれないように朝廷から距離を置き、機を待つよう献策したが、蕭懿は従わなかった。 500年、裴叔業が豫州で謀反を起こすと、持節を授かり、征虜将軍、督豫州諸軍事、豫州刺史に任じられ、暦陽、南譙2郡の太守を領し、裴叔業の討伐を命じられる。裴叔業はこれに恐れ、北魏に降ってしまう。 しばらくして崔慧景が叛乱を起こし、蕭宝玄を奉じて遂には都に攻め入り、台城を囲んだ。朝廷は混乱し、蕭懿に崔慧景討伐を命じる。小峴にいた蕭懿は、そのとき食事をとっていたが箸を投げ捨て、精鋭3千人を率いて城の救援に向かった。この時、蕭懿のもとに蕭衍から使者として虞安福が送られ、崔慧景を打ち破った後そのまま兵を率いて宮廷に入り、蕭宝巻を廃してしまうよう献策され、周りからも勧められたが、蕭懿は従わなかった。蕭懿は崔慧景が派遣した崔覚を撃破し、勝利の勢いに乗じて進み、崔慧景を打ち破った。この功により尚書令、都督征討水陸諸軍事に任じられ、2千5百戸を加増された。 蕭懿の功に並ぶ者がいなくなると、茹法珍らはこれを恐れ、蕭懿が謀反を起こそうとしていると蕭宝巻に讒言し、蕭宝巻もこれを信じた。このことを知った徐曜甫から襄陽に逃げるよう勧められたが、蕭懿は拒否し、結局死を賜った。 蕭懿の死を聞いて挙兵した蕭衍により蕭宝巻が廃され、和帝が立つと、蕭懿には侍中、中書監、司徒が追贈され、宣徳太后臨朝のもと改めて太傅が贈られた。502年、蕭衍が禅譲によって梁王朝を開くと丞相を追崇され、長沙王に封じられ、「宣武」の諡を贈られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蕭懿」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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