|
蕭排押(しょう はいおう、? - 1023年)は、遼(契丹)の政治家・軍人。字は韓隠。 == 経歴 == 国舅少父房の後裔。統和初年、左皮室詳穏となり、阻卜を討って功績を挙げた。4年(986年)、北宋の曹彬・米信らの軍を望都で撃破した。まもなく永興宮の分糾・舎利・拽剌・二皮室などの軍を率いて、枢密使の耶律斜軫とともに宋軍に奪われた山西の城邑を奪回した。この年の冬、北宋を攻撃する先鋒をつとめ、満城を陥落させ、南京統軍使に転じた。衛国公主(耶律長寿)を妻とし、駙馬都尉に任じられ、同政事門下平章事の位を加えられた。 13年(995年)、北院宣徽使・南院宣徽使を歴任した。聖宗にときの政治の利害から賦役の法にいたる意見を上書し、聖宗に聞き入れられた。15年(997年)、政事令の位を加えられ、東京留守に転じた。22年(1004年)、再び北宋を攻撃し、渤海軍を率いて、徳清軍を落とした。北宋の魏府の官吏である田逢吉・郭守栄・常顕・劉綽らを捕らえた。蕭撻凜が死去すると、南面の行政を専任とした。北宋とのあいだに和議が成立すると、北府宰相となった。排押の統治は穏健で寛容であり、当時の人の多数に支持された。 28年(1010年)、聖宗が契丹の高麗侵攻すると、排押は都統となり、兵を率いて北道から進攻して、開京の西嶺で高麗軍を撃破した。高麗王詢は開京を放棄して平州に逃亡した。排押は開京に入城して、大規模な略奪をおこなった。帰国すると、蘭陵郡王に封じられた。開泰2年(1013年)、宰相のまま西南面招討使となった。5年(1016年)、東平王に進んだ。 7年(1018年)、再び都統として高麗に遠征して開京まで到達したが、帰還の途中に茶河・陀河を渡ろうとして、高麗軍の挟射に遭った。排押は武器防具を棄てて敗走した。8年(1019年)、帰国すると敗戦の罪を問われて免官された。 太平3年(1023年)、豳王に封じられて再起したが、死去した。 弟に蕭恒徳があった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蕭排押」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|