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蕭撻不也(しょう たつふや、? - 1077年)は、遼(契丹)の政治家。字は斡里端。 == 経歴 == 国舅郡王蕭高九の孫にあたる。剛直な性格で知られた。咸雍年間、祗候郎君に補任された。太康元年(1075年)、彰愍宮使となり、趙国公主(耶律糺里)を妻に迎え、駙馬都尉に任じられた。 3年(1077年)、同知漢人行宮都部署に転じた。北院宣徽使の耶律撻不也と交友関係があり、耶律乙辛に憎まれた。6月、道宗の廃立を計画したと誣告された。鞭打ちの拷問に耐えられず、偽りの自白をした。道宗に引見されて取り調べられたが、意識混濁の状態で答えることができず、そのまま処刑された。 乾統年間、蘭陵郡王に追封され、画像が宜福殿に飾られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蕭撻不也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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