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蕭撻凜[しょう たつりん] 蕭撻凜(しょう たつりん、? - 1004年)は、遼(契丹)の軍人。字は駝寧。 == 経歴 == 馬群侍中の蕭朮魯列の子として生まれた。保寧初年、宿直官となり、激務の官を歴任した。彰徳軍節度使として出向した。統和4年(986年)、北宋の楊業が代州から侵入し、山西の諸邑を陥落させた。撻凜は諸軍副部署として、枢密使耶律斜軫の下で宋軍を撃破し、楊業を朔州で捕らえた。6年(988年)秋、南院都監に転じた。聖宗の南征に従い、沙堆を攻撃して奮戦し、負傷した。7年(989年)、右監門衛上将軍・検校太師の位を加えられた。 11年(993年)、東京留守の蕭恒徳とともに高麗を攻撃した。12年(994年)、王太妃の命を受けて烏古および永興宮分軍を統率して西夏を討ち、阻卜都詳穏となった。凱旋すると、功績により兼侍中を加えられた。14年(996年)、反抗した首長の阿魯敦ら60人を斬って、蘭陵郡王に封じられた。15年(997年)5月、敵烈部の民が詳穏を殺して逃走し、西北部を荒らすと、撻凜は軽騎を率いて追撃した。9月、阻卜諸部を討って服属させたので、聖宗は撻凜を賞賛し、林牙耶律昭に命じてその功績を述べた賦を作らせた。撻凜は諸部が叛服常ない状況をかんがみて、3城を建てて辺境の患いを絶つよう上表し、聞き入れられた。まもなく召還されて南京統軍使となった。 20年(1002年)4月、宋軍を泰州で撃破した。21年(1003年)4月、望都で王継忠を捕らえた。22年(1004年)閏月、遂城で宋軍を破り、祁州を落とした。11月、澶淵に進軍し、宋の真宗の軍と対峙した。撻凜は地形を調べて、宋の羊観・塩堆・鳧雁を奪取したが、弩の伏兵に射られて戦死した。 子の蕭慥古は、南京統軍使となった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蕭撻凜」の詳細全文を読む
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