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蕭朮哲 : ウィキペディア日本語版
蕭朮哲[しょう じゅつてつ]
蕭朮哲(しょう じゅつてつ、生没年不詳)は、契丹)の外戚は石魯隠。
== 経歴 ==
蕭孝穆の弟の蕭高九の子として生まれた。外戚として任用され、監門衛上将軍の位を加えられた。
重熙13年(1044年)、衛兵を率いて李元昊を討ち、功績を挙げて興聖宮使に転じた。蒲奴里部長の陶得里が反乱を起こすと、朮哲は統軍都監となり、都統の耶律義先の下で反乱軍を討ち、陶得里を捕らえた。朮哲は耶律義先と合わず、義先を誣告して罪に問われ、免官された。まもなく西南面招討都監となったが、事件に連座して獄に下り、欽哀太后の口添えで杖刑を受けて釈放された。
清寧初年、国舅詳穏・西北路招討使となった。官粟300斛を横領し、家畜を売買した代金で穴埋めした。後に族弟の蕭胡睹がこのことを告発すると、道宗は激怒して、朮哲に杖罰を下して免官した。まもなく朮哲は昭徳軍節度使として再び起用され、召還されて北院宣徽使となった。9年(1063年)、再び西北路招討使となると、兵士を訓練して兵器を増やし、厳しく号令統制して、西北辺境の治安を安定させた。10年(1064年)、入朝して柳城郡王に封じられた。
咸雍2年(1066年)、北府宰相となったが、北院枢密使の耶律乙辛に憎まれた。太康3年(1077年)、護衛の蕭忽古らとともに乙辛の殺害を計画したとして誣告された。調査を受けてその計画に実態がないことが明らかとなったが、宰相を罷免され、順義軍に左遷されて駐屯した。死後に晋宋梁三国王に追封された。
甥に蕭薬師奴があった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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