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蕭淵業[しょう えんぎょう] 蕭淵業(しょう えんぎょう、479年 - 526年)は、南朝梁の皇族。長沙元王。字は静曠。『梁書』と『南史』は李淵の諱を避けて、名を業、あるいは深業と表記している。 == 経歴 == 蕭衍の長兄蕭懿の子として生まれた。斉に仕えて著作郎・太子舎人となった。永元2年(500年)、蕭懿が殺害されると、淵業は弟の蕭淵藻・蕭淵象らとともに逃亡した。蕭衍の軍中におもむき、寧朔将軍となった。中興2年(502年)、輔国将軍・南琅邪清河二郡太守に任じられた。天監2年(503年)、長沙王の封を嗣ぎ、冠軍将軍となり、秘書監に転じた。4年(505年)、侍中の位を受けた。6年(507年)、散騎常侍・太子右衛率に転じ、左驍騎将軍の位を受けた。この年の5月に中護軍となり、石頭戍軍事を兼務した。7年(508年)2月、使持節・都督南兗兗徐青冀五州諸軍事・仁威将軍・南兗州刺史として出向した。8年(509年)10月、護軍将軍として召還された。9年(510年)、中書令に任じられ、安後将軍の位を受け、琅邪郡と彭城郡に駐屯し、南琅邪郡太守を兼ねた。10年(511年)、安右将軍・散騎常侍として召された。14年(515年)9月、再び護軍将軍となった。南琅邪郡と彭城郡を領知して、琅邪に駐屯した。召還されて再び中書令となった。15年(516年)10月、軽車将軍・湘州刺史として出向した。 淵業は仏法を篤く信仰し、蕭衍もたびたびこのことを賞賛した。普通元年(520年)、また護軍将軍となった。3年(522年)、散騎常侍として召された。4年(523年)、侍中・金紫光禄大夫の位を受けた。7年(526年)、死去した。享年は48。諡は元といった。かれの文集が編集された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蕭淵業」の詳細全文を読む
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