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蕭誉(519年-550年6月22日)、字は重孫。南梁昭明太子蕭統の次男。後梁初代皇帝蕭詧の兄。 普通2年(521年)枝江県公に封じられた。 中大通3年6月癸丑(531年7月14日)には河東郡王に封ぜられ、食邑2000戸が与えられた。さらに寧遠将軍・「石頭戍軍事」に任じられ、琅邪、彭城二郡の太守になった。 大同3年4月丁卯(537年4月27日)、南徐州刺史に任じられ、後に侍中・軽東将軍となった。 太清2年4月戊寅(548年5月10日)、南中郎将に任ぜられ、湘州刺史となった。 同年、侯景の乱が発生。蕭譽は軍を率い都の建康に向かったが青草湖〔洞庭湖の南部にあった湖。現在は洞庭湖と一体になっている。:zh:青草湖 (湖南)の項も参照〕に到着したときは既に建康は占領されていたので、湘州に軍を戻した。 このころ、湘東王蕭繹は軍を率い武城(武漢市黄陂区)にいたが、雍州刺史の張纘が蕭繹に「河東は兵を起こし、岳陽は米を集めており、共にわれわれに従わずまさに江陵を攻めようとしています。」(「河東起兵,岳陽聚米,共爲不逞,將襲江陵。」)と密告した。 蕭繹は周弘を目付けとして蕭誉の元に送ったが、蕭誉は従わなかった。 蕭繹は大いに怒り長男の蕭方等を蕭譽討伐に向かわせたが蕭方等は敗死した。蕭繹はさらに鎮兵将軍鮑泉を蕭譽討伐に派遣したが勝てず、鮑泉は更迭され領軍将軍王僧弁に替えられた。 大宝元年五月辛未(550年6月22日)、湘州城は王僧弁に攻められ蕭譽は斬首された。 大定元年(555年)、西魏の支援を受け後梁を興した蕭詧により蕭誉は丞相に追贈され、武桓と諡号された。〔『周書』巻四十八·列伝第四十:“贈兄河東王誉丞相,諡曰武桓”〕 ==参考文献== 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蕭誉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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