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蕭酬斡[しょう しゅうあつ] 蕭酬斡(しょう しゅうあつ、1062年 - 1116年)は、遼(契丹)の外戚。字は訛里本。国舅少父房の後裔。 == 経歴 == 趙王蕭別里剌と燕国夫人削古の間の子として生まれた。容貌魁偉で、穏和な性格であった。太康元年(1075年)、越国公主(耶律特里)を妻に迎え、駙馬都尉に任じられ、祗候郎君班詳穏となった。5年(1079年)、蘭陵郡王に封じられた。7年(1081年)、漢人行宮都部署となり、知枢密院事を兼ねた。8年(1082年)、道宗が皇孫耶律延禧を後嗣に立てようとして、酬斡を国舅詳穏とし、酬斡の妹にあたる皇后を恵妃に降格して乾州に移した。酬斡の母の燕国夫人は駅馬を横領したことが発覚して、封号を剥奪された。また母夫人は妹の魯姐とともに巫蠱をおこなっていたため、太安2年(1086年)に処刑された。酬斡は越国公主と離婚させられ、興聖宮(女古オルダ)に籍を移されて、烏古敵烈部に流された。 天慶年間、召還されて南女直詳穏となり、征東副統軍に転じた。6年(1116年)、広州の渤海人が反乱を起こしたため、酬斡は駙馬都尉の蕭韓家奴とともに反乱軍を討ち、反乱軍の将軍の侯概を川州で撃破した。この年、東京遼陽府で反乱が起こり、反乱軍の襲撃を受けて遼の征東軍は壊滅した。ひとり酬斡は麾下の数人を率いて奮戦したが、陣没し、龍虎衛上将軍の位を追贈された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蕭酬斡」の詳細全文を読む
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