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蕭 鏗(しょう こう、477年 - 494年)は、南朝斉の皇族。宜都王。字は宣厳。高帝蕭道成の十六男。 == 経歴 == 蕭道成と何太妃のあいだの子として生まれた。はじめ游撃将軍の号を受けた。483年(永明元年)、宜都王に封じられた。492年(永明10年)、左民尚書に転じた。493年(永明11年)、持節・都督南豫司二州軍事・冠軍将軍・南豫州刺史となり、姑熟に駐屯した。ときに東晋の桓温の娘の墓を盗掘した者がおり、蕭鏗が摘発して盗まれた財宝を取り返したが、宝物には一切手をつけず、そのまま墓にもどして修復した。蕭昭業が即位すると、蕭鏗は征虜将軍に進んだ。494年(延興元年)9月、宣城公蕭鸞の命により殺害された。享年は18。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蕭鏗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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