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薄定吉[すすき さだきち]
薄 定吉(すすき さだきち〔、1862年2月14日(文久2年1月16日)〔「薄定吉長崎県長崎市長就任ノ件」。〕 - 1927年(昭和2年)12月16日〔『朝日新聞』(東京本社発行)1927年12月19日朝刊、2面の訃報より。〕)は、日本の教育者、内務官僚。官選岐阜県知事、長崎市長。旧名・定右衛門〔。 ==経歴== 備前国岡山城下門田屋敷出身。岡山藩士の家に生まれる〔。岡山中学校、大阪専門学校予科、築地大学校を経て、1882年7月、東京大学予備門を卒業。さらに1888年7月、帝国大学法科大学を卒業した〔「薄定吉第四高等中学校教諭ニ被任ノ件」。〕。 1888年8月、第四高等中学校教諭に就任。さらに同校教授となる。1891年1月、内務省に転じ内務省試補となる。以後、図書局勤務、県治局勤務、鹿児島県参事官、同兼内務部第三課長、同兼内務部第一課長、長崎県参事官、同兼内務部第三課長、同兼内務部第五課長、群馬県書記官、山梨県書記官、奈良県書記官、鳥取県書記官、宮城県書記官、同事務官・第一部長、同兼第三部長などを歴任〔。 1906年11月、岐阜県知事に就任。知事官舎新築、蚕業試験場の設置、県外移出米検査制度の創設、産業組合の奨励などを推進した。1913年6月、知事を辞職し退官した〔〔『新編日本の歴代知事』541頁。〕。同年8月21日、長崎市長に就任するも翌月18日に辞職した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「薄定吉」の詳細全文を読む
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