|
薄 一波(はく いっぱ、ボー・イーボー、1908年2月17日 - 2007年1月15日)は中華人民共和国の政治家。国務院副総理、中国共産党中央顧問委員会副主任などを務めた。中共八大元老の一人とされている。本名は薄書存。次男に元重慶市党委書記の薄熙来。 == 経歴 == 1925年4月、中国共産党に入党。山西省党委員などを務め、太原の学生・労働者運動を指揮するが失敗し、晋北地区に移る。1931年に北平で国民党に逮捕され投獄、獄中にあっても中共支部書記も務めた。 その後、張聞天や劉少奇の指示により1936年に「反共宣言」を発表して(偽装転向する形で)出獄、再度山西で活動を再開して山西犠牲救国同盟会(犠盟会)を結成し軍隊の育成に携わる。1943年に延安へ赴いて中共中央党校で学習、1945年に第7期中共中央委員に選出される。日本軍降伏後の国共内戦では華北軍区の政治委員として平津戦役などに参加した。 中華人民共和国成立後は、政務院財政経済委員会副主任、財政部部長に就任。1954年、国家建設委員会主任。1956年5月12日、第1期全国人民代表大会常務委員会第40回会議において国家経済委員会主任に任命され〔第一届全国人民代表大会常務委員会第四十次会議簡況 〕、同年11月16日の全人代常務委員会第51回会議において国務院副総理に任命された〔第一届全国人民代表大会常務委員会第五十一次会議簡況 〕。同年9月28日、第8期1中全会で中共中央政治局委員候補に選出〔中共八届一中全会選出新的中央机构 〕。しかし、経済政策の違いから毛沢東に疎まれていく。 文化大革命が最高潮となった1969年4月の第9回党大会では康生が江青に渡した中央委員のブラックリストに「叛徒、特務(スパイ)、外国と結託した者」とされていたために中央委員再任はならず、「六十一人叛徒集団事件」(薄一波、安子文ら61人の自首変節に関する資料)で失脚。かつて党活動継続のために行った偽装転向と出獄が(既に失脚していた)張や劉の指示で行ったことが追及と弾圧を受ける一因となり、薄が失脚している最中に胡明夫人も睡眠薬自殺を遂げてしまう。 1978年、胡耀邦が中央組織部長となり失脚した党員の名誉を回復すると、同年12月の第11期3中全会で薄一波も名誉回復がなされた〔(一九七八年十二月二十二日採択)中国共産党第十一期中央委員会第三回総会コミュニケ 〕〔中国共産党第十一届中央委員会第三次全体会議公報 〕。1979年6月から7月の第5期全人代第2回会議において副総理に復帰し〔第五届全国人民代表大会第二次会議簡況 〕、7月1日の第5期全人代常務委員会第9回会議におて国務院財政経済委員会委員を兼務した〔第五届全国人民代表大会常務委員会第九次会議簡況 〕。同年9月の第11期4中全会においては党中央委員に増補選出された〔中国共産党第十一届中央委員会第四次全体会議公報 〕。1982年4月から5月の第5期全人代常務委員会第23回会議において国務院副総理を免ぜられて国務委員に任命〔第五届全国人民代表大会常務委員会第二十三次会議簡況 〕。同年、党中央顧問委員会副主任となり現役を退くが、保守派として胡耀邦の総書記解任(1987年)に動いた。また、インフレなどの経済混乱を引き起こしたとして、後任の総書記趙紫陽を批判、趙紫陽は党内における指導力を失っていった。 2002年の第16回党大会に出席、元老健在を見せ付けた。2007年1月15日、北京にて病死〔薄一波同志遺体火化 胡錦濤等到八宝山送別 〕。99歳の誕生日を迎える1ヶ月前の死だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「薄一波」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|