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薄 諸光(すすき もろみつ、天文16年11月28日(1548年1月8日) - 天正13年10月5日(1585年11月26日))は、戦国時代から安土桃山時代の公家。初名は以継。堂上家・薄家の最後の当主。参議・薄以緒の養子。実は権大納言・山科言継の次男。官位は正五位下・左兵衛権佐。 == 経歴 == 権大納言・山科言継の次男であったが、参議・薄以緒の養子となり、橘氏唯一の堂上家であった薄家を継ぐ。 弘治4年(1558年)元服し、昇殿を許される。その後六位蔵人を務めて極﨟にまで昇るが、永禄6年(1563年)五位に昇らず逆退し、再び新蔵人となる。引き続き六位蔵人を務める傍ら、左近衛将監と式部大丞を兼ね、この間の天正6年(1578年)には以継から諸光に改名している。 天正8年(1580年)従五位下に叙爵し、天正9年(1581年)従五位上、天正10年(1582年)正五位下・左兵衛権佐に叙任される。 しかし、同年6月に発生した本能寺の変から清洲会議を経て山城国・河内国・丹波国を支配下に置いた羽柴秀吉が、9月には牛への役銭賦課を禁じる。このあおりを受けて、諸光は牛役銭徴集を咎められて幽閉されたのち、同年10月5日に秀吉の命令で自殺させられた〔『言継卿記』天正10年10月5日条〕。享年39。諸光の横死とともに薄家は断絶した。 薄家は紅粉屋公事・牛公事・長坂口黒木公事・青花公事などの権益を保持する公家であったことから〔『言継卿記』〕、秀吉によって処罰されたとも考えられる〔「大日本史料 第十一編之二十一」『東京大学史料編纂所報』第31号、16頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「薄諸光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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