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薛弁(薛辯、せつ べん、379年 - 422年)は、後秦から北魏にかけての人物。字は允白。本貫は河東郡汾陰県。 == 経歴 == 後秦の鎮東将軍の薛強の子として生まれた。代々河東の薛氏を統帥して三薛と称される家柄の出身で、父が死去するとその後を嗣いだ。後秦の尚書郎・建威将軍・河北郡太守に任じられた。後秦が東晋の劉裕の北伐で滅ぼされると、薛弁は劉裕に降って、東晋の寧朔将軍・平陽郡太守に任じられた。劉裕が長安を失陥すると、薛弁は北魏に帰順して、黄河流域の平定に功績を立てて、明元帝により平西将軍・雍州刺史に任じられ、汾陰侯の爵位を受けた。422年(泰常7年)、在官のまま死去した。享年は44。 子に薛謹があった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「薛弁」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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