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薛顕 : ウィキペディア日本語版
薛顕[ せつ けん]
薛 顕 ( せつ けん 生年不明 - 1387年 ) は、末から初の軍人。蕭 ( 現在の安徽省蕭県 ) の人。朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。
==生涯==

はじめは徐州の趙均用に仕え、元帥として泗州を守っていた。
1359年、趙均用死後、泗州を明け渡し、朱元璋に仕えることになった。〔『 続資治通鑑 』第215によれば、1360年1月、張士誠の武将・李済が泗州、徐州、ヒ州を破ったと記されている。朱元璋に仕える前に、張士誠に仕えていた可能性もある。〕〔『 明史 』第1 本紀第1 太祖1によれば、1361年3月、元の将・薛顕が泗州を明け渡し、降伏したとある。〕
1362年5月、大都督・朱文正に従い、南昌を守った。
1363年4月、陳友諒が大軍で南昌を攻めた。薛顕は章江、新城の門を守った。陳友諒軍は激しい攻撃を加え、薛顕は防戦に努めていた。5月、陳友諒軍は新城門を攻撃した。薛顕は城門を開いて突入し、白兵戦を行った。平章・劉進昭を斬り、副将・枢趙祥を捕らえて、敵軍を退けた。この戦いで百戸・徐明が捕われ、刑死した。〔『 続資治通鑑 』第217によれば、徐明は陳友諒の陣営から脱し、良馬を奪って帰還しようとしたところ、敵兵に見つかり、殺されたとある。〕約3ヶ月、南昌を守り抜き、陳友諒軍は囲みを解いた。
1365年1月、参政・何文輝〔『 明史紀事本末 』第2 平定東南によれば、何文燁と記されている。〕と共に新淦を攻め、守将・鄧仲謙を斬って、これを攻略した。周囲の郡県を降して、これらの功により、江西行省参政に抜擢された。
1365年10月、徐達に従い、淮東を攻略した。
1366年8月、常遇春と共に湖州を攻めた。9月、常遇春と分かれて廖永忠と共に徳清を攻略した。軍船40艘を獲り、院判・鍾正、晋徳成を捕らえた。10月、徐達、顧時と共に升山の水寨を攻めた。張士誠は五太子を援軍として向かわせた。五太子と常遇春が戦い、薛顕は水軍を率いて奮戦し、敵軍の軍船を焼いた。敵軍は壊滅し、その後、五太子、朱暹、呂珍ら舊館を明け渡して降伏して捕虜6万を得た。常遇春は「今日の戦いは将軍の功である。私の力は将軍の力には及ばないだろう」と言った。五太子らが降ったことを聞き、人々は恐れ、湖州は攻略された。11月、平江を囲み、諸将と共に戦った。
1367年9月、張士誠を滅ぼした後、褒賞として彩段表裏6匹を賜り、行省右丞に進んだ。10月、徐達に従い、北伐に参加した。11月、沂州、12月に兗州を攻略した。
1368年 ( 洪武元年 ) 、青州、済州、2月に東昌、棣州、楽安を攻略した。4月、河南、関州、陝州を奪還した。渡河して、衛輝、彰徳、広平、臨清を攻略した。7月、騎兵、歩兵、水軍を率いて徳州、長蘆を攻略した。元軍を河西務、通州で破った。8月、元の首都・大都を攻略した。傅友徳、曹良臣、顧時らと共に、北への要路を巡察した。大同を攻略し、喬右丞ら34人を捕らえた。山西を攻略した。9月、保定を攻略し、七垛寨を奪った。11月、石州で脱因貼木兒を追撃して破った。傅友徳と共に鉄騎兵3千を率いて定西を攻略した。12月、太原を攻め、傅友徳と共に決死隊数十騎を率いて、ココ・テムル軍を敗走させ、豁鼻馬を降した。傅友徳と共に賀宗哲を石州で迎撃して破った。
1369年 ( 洪武2年 ) 2月、白崖、桃花諸山寨を奪った。3月、徐達と平陽で合流し、関中に入った。4月、臨洮に至り、馬鞍山の西の砦を攻めた。多くの畜産を獲り、寧夏で元の豫王、ココ・テムルを破った。5月、徐達と合流し、平涼を攻略した。慶陽の守将・張良臣が偽って降伏してきた。薛顕は5千騎を率いて慶陽の受け入れに向かった。出迎えた張良臣は道中にひれ伏して、へりくだったふりをして、帰順の意を示した。張良臣は夜に薛顕の陣営を襲った。指揮・張煥は捕らわれ、不意を衝かれた薛顕は手傷を負ったが、囲みを突破して難を逃れた。張良臣は城に篭り、徐達はこれを囲んだ。
7月、張良臣を助けるため、ココ・テムルは韓扎兒に原州を攻めさせた。薛顕は傅友徳と共に霊州に駐屯して、敵軍を抑えた。8月、張良臣は支援を断たれ、ついに敗れた。その後、顧時、傅友徳と共に賀宗哲を六盤山に追撃し、ココ・テムルを追い払って、陝西を平定した。
1370年 ( 洪武3年 ) 、薛顕は勝手に役人、獣医、騎兵、千戸・呉富を殺し、朱元璋はその罪を数え上げた。11月、永城侯に封ぜられたが、海南へ流された。薛顕の俸禄のうち、3分の1を呉富や騎兵らの血縁者に、3分の1をその母や妻に与えて、罪を相殺させた。海南に流されて1年が経ち、朱元璋はこれを思い出し、薛顕を召還した。世券、食禄1千5百石を賜った。
1371年 ( 洪武4年 ) 、徐達に従い、漠北遠征に向かった。河南の巡視を行い、7月、山西で練兵を行った。徐達に従い、北辺を巡った。
1380年 ( 洪武13年 ) 8月、曹震、楊璟と共に北平で屯田を行った。〔『明史』第2 本紀第2 太
祖2によれば、永城候・恭顕と記されている。〕
1382年 ( 洪武15年 ) 12月、山西方面の軍務を執り行った。
1387年 ( 洪武20年 ) 1月、征虜大将軍・馮勝に従い、ナガチュ討伐に参加し、金山に向かった。冬、応天府に召還された。山海衛で亡くなった。永国公を贈られ、桓襄と諡された。
1390年 ( 洪武23年 ) 、胡惟庸の獄に追座して、爵位を除かれた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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