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薩摩藩家臣(さつまはんかしん)では、薩摩島津氏を藩主に頂く薩摩藩(鹿児島藩)の主要家臣・門閥について述べる。 == 概要 == 薩摩藩の家臣団の家格は正徳元年までに整備され、御一門(4家、私領主)、一所持(21家 私領主)、一所持格(約20家)、寄合、寄合並(寄合、寄合並をあわせ約60家。「三州御治世要覧」ではこの家格を「家老与」と呼んでいる。以上が上士層で家老を出すことができる。但し、寄合並は一代限りの家格のため、変動が激しい)、無格(2家)、小番(約760家)、新番(約24家)、御小姓与(約3000家。ここまでが城下士)、与力(赦免士や座附士とも、准士分)の10の家格に分かれていた。なお、家格整備前は新番から郷士までを合わせて「大番」と呼んでいた。 地方の外城に在する外城士(江戸中期より郷士と称す)は家格こそ御小姓与と同格とされたが、島津重豪の藩政改革以降徐々に城下士より下に見られるようになった。また、外城士内でも身分の上下(主に血統・家柄)があり、名門でなければ郷士年寄等のいわゆる麓三役(外城行政の上級役人)にはなれなかった。 下記直臣の家臣は私領士または家中と呼ばれ(通称として又家来)、陪臣身分として直臣である城下士・郷士よりも下にみられた〔藩制上明確に私領士が城下士・郷士の下に位置付けられていたわけではない。藩主を輩出した加治木島津家家臣が城下士に伍し郷士に勝る権勢があったなど、例外はある。また、都城島津家など大身の私領では家中の中でさらに家格があった。〕。ただし、戊辰戦争後の藩政改革で私領が廃された際にほとんどが郷士となっている。 能力や養子縁組、分家や零落など様々な事情で上記身分間の移動が存在していた。 明治維新に際して、薩摩藩には士族戸数43,119戸があった。諸藩の士族戸数と比較して際立って多いのは、薩摩・大隅・日向の広大な領地を治め、また、九州統一の過程で各地の武士が取り込まれ増えたためである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「薩摩藩家臣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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