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薩摩藩第二次米国留学生(さつまはんだいにじべいこくりゅうがくせい)とは、は慶応2年3月28日(1866年5月12日)、長崎から密航出国し、アメリカへ渡った6名の薩摩藩士。横浜で伝道活動をしていたブラウン牧師の母校であるマサチューセッツ州モンソンのモンソンアカデミーに留学した。出航前から、慶応4年10月4日までの詳細は、犬塚孝明「仁礼景範航米日記 」(『研究年報』第13号、鹿児島県立短期大学地域研究所、1985年3月)、同「仁礼景範航米日記(その二) 」(同誌第14号、1986年3月)に詳しい。 == 概要 == 1865年に出発した第一次グループを「第一次留学生」、その翌年のプロジェクトであった米国留学生を「第二次留学生」と呼ぶことが多い。この2つのグループは、第一次が英国へ向かったため「第一次英国留学生」とも呼ばれ、第二次は米国に留学したため「第二次米国留学生」とも呼ばれる。ただし、第一次グループはイギリス以外の欧州国への留学生を含み、また、一部は究極的にアメリカへ留学した。第二次グループも、最初の到着地はイギリスであるため、統一されていない呼び方といえる。 メンバーは以下の通り。(主に「仁礼景範航米日記」より) ; 江夏蘇助(1831 - 1870) : 変名は久松。名は、栄方、壮助、仲左衛門など。剣士として知られ、鎮撫使として送られた寺田屋事件では、江夏仲左衛門として記録されていることが多い。精忠組の一員。産物方書役から御供御徒目付役。仁礼と共に慶応4年9月に帰国する。明治3年4月に東京浜町の旅館で死亡。 ; 仁礼景範(1831 - 1900) : :精忠組の一員。海軍大臣、枢密顧問官などを歴任。 ; 湯地定基(1843 - 1928) : :開拓使に出仕、北海道で農業、牧畜を進めた。 ; 吉原重俊(1845 - 1887) : :精忠組の一員。税関局長、租税局長、初代日銀総裁などを歴任。 ; 種子島敬助(1844 - ) : 変名は吉田彦麿、伴七郎。吉原重俊と共にモンソンアカデミーを卒業するが、その後1年同校に残る。Charles Lanman "The Japanese in America"に"Oriental Civilization"という題の作文があり、その解説文として、他の日本人留学生よりもギリシャ、ラテン文学などに興味を持ち、病気のためヨーロッパへ向かい、その後日本へ帰国したと書かれている。帰国後、吉田清成を東京で訪ねるが、吉田は既にアメリカ経由でイギリスへ出発してしまっていた、という内容の書簡が吉田清成関係文書にある。 ; 木藤市助(? - 1867) : 変名は芦原周平。上記の5名に先立ってアメリカへ到着し、現地の準備を進める。しかし、翌年1867年7月20日から行方不明になり、翌21日にも戻らず、月曜になってモンソン村民と共に留学生たちが捜索し、同日夜8時頃、モンソンから1マイルほど東、ハイウェイから外れた場所で首つり自殺しているのが見つかった。 一行は、上海に滞在した後、慶応2年9月7日にイギリスに到着。9月12日にはロンドンを出航して、アメリカへ向かう。9月27日(西暦11月4日)City of Paris号でニューヨーク着。ニューヨークに滞在後、10月20日にモンソンへ向かった。 彼らがモンソンへ留学したのは、改革派教会の宣教師、サミュエル・ロビンス・ブラウンの後援によるもので、ブラウンは、日本人留学生に先駆けて、Yung Wing(容閎)など、中国人留学生をモンソンに寄宿させていた経験から、日本人留学生もモンソンへ送った。ブラウン自身も、1867年に自宅が火事のためアメリカへ帰国し、その後、モンソンアカデミーに留学していた薩摩藩留学生と同じ町に過ごし、木藤の自殺後、その葬儀も行った。 薩摩藩第二次米国留学生はウォルシュ商会のフランシス・ホール(New York Tribuneの記者を兼任。ブラウン、グイド・フルベッキと共に来日)、China and Japan Trading Company、Fogg & Co.のWilliam Hayes Fogg(ホーク、ポーク等と表記されている)など、アメリカ商人との関係が深く、Foggの甥でChina and Japan Trading Companyの後継者であるHoratio Nelson Twomblyが二人の留学生を寄宿させていたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「薩摩藩第二次米国留学生」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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