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隼人[はやと]
隼人(はやと)とは、古代日本において、薩摩・大隅(現在の鹿児島県)に居住した人々。「はやひと(はやびと)」、「はいと」とも呼ばれ、「隼(はやぶさ)のような人」の形容とも〔『Story 日本の歴史 古代・中世・近世史編』 日本史教育研究会 山川出版社 2001年 ISBN 4-634-01640-0 p.62〕方位の象徴となる四神に関する言葉のなかから、南を示す「鳥隼」の「隼」の字によって名付けられたとも〔鐘江宏之『律令国家と万葉びと (全集 日本の歴史 3)』95頁〕(あくまで隼人は大和側の呼称)。風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。やがてヤマト王権の支配下に組み込まれ、律令制に基づく官職のひとつとなった。兵部省の被官、隼人司に属した。百官名のひとつとなり、東百官には、隼人助(はやとのすけ)がある。現在は、日本人男性の人名としても用いられる。 == 概要 == 古く熊襲(くまそ)と呼ばれた人々と同じといわれるが〔熊襲の後裔を隼人とする説もあるが、「クマ」も「ソ」も、隼人の阿多や大隅も九州南部の地名であり、大和政権に従わないいくつかの部族に対する名称と近年では解されている(系譜的というより独特の文化を継承した部族)。参考・武光誠 『古事記・日本書紀を知る事典』 東京堂出版 初版 1999年 ISBN 4-490-10526-6 p.223の脚注より〕、「熊襲」という言葉は日本書紀の日本武尊物語などの伝説的記録に現れるのに対し、「隼人」は平安時代初頭までの歴史記録に多数現れる。熊襲が反抗的に描かれるのに対し、隼人は仁徳紀には、天皇や王子の近習であったと早くから記されている〔『古事記』では、「ソバカリ」、『日本書紀』では、「サシヒレ」の名で登場し、仁徳没後、一方の皇子に命じられ、自ら従えていた皇子(主君)を殺害するも、酒を飲まされ、寝返った皇子に殺害されてしまう。体制外の武力として隼人が利用された語りである。参考・笹山晴生 『古代国家と軍隊 皇軍と私兵の系譜』 中公新書 1975年〕。こうした近習の記事や雄略天皇が亡くなり、墓の前で泣いたなどの記事は、私的な家来であり、帰化したのは7世紀末頃とされるが、6世紀末や7世紀初め説もある。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「隼人」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hayato people 」があります。
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