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熏習(くんじゅう、(skt.) vaasanaa वासना、abhyaasa अभ्यास、bhaavanaa भावना)とは、身口に現れる善悪の行法もしくは意に現れる善悪の思想が、起こるに随ってその気分を真如あるいは阿頼耶識に留めること。俗にいう「移り香」、香りが衣に染み付いて残存するようなことを言う。 薫習が身口意に現れたのを「現行法」(げんぎょうほう)といい、真如あるいは阿頼耶識に気分が留まったものを「種子(しゅうじ)」あるいは「習気」(じっけ)という。このように現行法が真如あるいは阿頼耶識にその種子もしくは習気を留める作用を薫習という。 :「薫習の義とは、世間の衣服に実に香なし、もし人、香をもって熏習するに、すなわち香気あるが如し」''大乗起信論'' :「熏とは撃発の意味。習とは数々の意味。数々の熏発によってこの種(子)があるから。」''唯識述記'' 一本 ==四薫習== 「しくんじゅう」と読む。真妄たがいに薫習し、それによって染浄の二つの法が相続して断続することがないことを説明する。 この四薫習は、アシュバゴーシャに仮託される大乗起信論の所説で、根本煩悩である無明が、本来平等一味の世界に対して分別の妄想を生起して、人間に差別的執着を起こさせ、それが世間に差別を生ぜしめ、そこに起こる対立観に人間は苦しめられるのであると染法の重荷を説いて迷いの事実を明らかにする。 また、悟りについては、本来的に一味平等であり、自他一如であるという事実認識が、常に自他対立に迷う人間生存へ影響し作用することによって、人間は迷いを克服し悟りを実現することができると浄法の熏習を説く。このように、流転と還滅(げんめつ)を染浄互熏ということから明らかにする。このような熏習による迷悟の理解は、ひいては人間性の開発(かいほつ)や確立について、また人間形成の問題を考える時、大切な暗示を与える。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「薫習」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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