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藁谷 勇三郎(わらがや〔『春は昔』153頁〕〔*>陸軍実役停年名簿では「わらや」。〕 ゆうさぶろう、1877年(明治10年)4月24日 - 没年不明)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 ==生涯== 福島県士族の三男である。会津中学〔*>藁谷は会津中学2回生で、同級生に名越士朗海軍大佐がいる。名越は海軍兵学校27期で、松平保男とともに「鎮遠」分隊長として日本海海戦を戦った。名越も稚松会設立決議に加わっている。〕を経て、1898年(明治31年)11月25日、陸軍士官学校(第10期)を卒業し〔『官報』第4625号、明治31年11月29日。〕、翌年6月27日、歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊附となった〔『官報』第4796号、明治32年6月28日。〕。戸山学校教官、将校生徒試験常置委員〔『稚松会会誌』(1912年発行)〕、歩兵第15連隊大隊長〔『会津会会報第10号』〕、歩兵第59連隊附〔『会津会会員名簿』〕、松本連隊区司令官等を歴任し、1922年(大正11年)予備役編入となる。日露戦争、シベリア出兵に従軍し、功五級に叙せられた。教官を務めた戸山学校は陸軍歩兵戦術の研究、教育に当たる機関で、藁谷は剣術、水泳、体操に関係する下記の著作を刊行した。『剣術用具ノ手入保存法』には当時の校長大庭二郎が序文を寄せている。予備役後は会津松平家執事を務める〔『会津会雑誌第51号』〕。会津松平家分家の松平一郎に嫁いだ松平豊子(徳川家正長女)によれば、藁谷は「極く人のいい」人物であった〔153頁〕。 ;著作 *『新旧剣術教範之研究』 軍事教育会、1907年 *『各種教練と体操 』 東京兵事雑誌社、1909年 *『遊泳教育 』 東京兵事雑誌社、1910年 (相良広一との共著) *『剣術用具ノ手入保存法 』 陸軍戸山学校将校集会所、1912年 ;稚松会設立 1912年(明治45年)1月3日、会津出身陸海軍将校が会津松平家を年賀に訪問する。その場で稚松会の設立発起がなされ、藁谷(大尉)は他の一人(機関少佐)と案内状を発送する。4日後には松平保男、山田英夫、野口坤之、秋月胤逸(のち少将)、横山勇、下平英太郎、樋口修一郎そして藁谷らが集い、会設立が決議された。藁谷はのちに理事を務め〔『稚松会会員名簿』1937年12月〕、また賛助員〔『稚松会会誌第19号』〕として同郷後進の育成に尽力した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藁谷勇三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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