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藤井フミヤ(ふじいフミヤ、1962年7月11日 - )は、日本のミュージシャン、俳優。元チェッカーズのリードボーカル。福岡県久留米市出身。本名および旧芸名は、藤井 郁弥(読み同じ)。弟は元チェッカーズのサックスプレイヤーでミュージシャンの藤井尚之。長男はフジテレビアナウンサーの藤井弘輝〔藤井フミヤの長男弘輝さん フジTVアナウンサーに 〕。 == 略歴 == 鳥栖駅長などを歴任した国鉄職員の父と美容師の母のもとに第1子として出生。中学生の頃、キャロルに出会い音楽を始める。 久留米市立南筑高等学校卒業後、日本国有鉄道・門司鉄道管理局に就職し、鳥栖駅で半年間の見習期間の後、早岐駅輸送係として貨物列車の操車・入換業務に従事。労働組合は国鉄労働組合(国労)に所属した。 国鉄退職後の1983年にチェッカーズのリードボーカルとしてデビュー、数多くのヒットを飛ばした。歌唱力のみならず外見や言動も注目され、彼の先進的なファッションを真似する若者が増加した。また、オリジナル作品をシングルとして発売した以降の殆どの作詞を担当し、楽曲製作の中心的存在となった。 1992年にチェッカーズは解散、翌1993年から「藤井 郁弥」を「藤井 フミヤ」に改め、ソロ活動を開始した。解散当初、仕事が激減し、当時ロサンゼルス在住の屋敷豪太の誘いで渡米。同じくロス在住の鈴木賢司に選んでもらい、ギブソンのギター「B-25」を購入。これを用いて最初に作曲された曲が『TRUE LOVE』である〔日本経済新聞2013年8月23日「見よう見まねで作曲 大ヒット」〕。同年リリースしたこの曲が240万枚〔『Music Museum』2000年7月5日放送・ゲスト:藤井フミヤ〕、1996年リリースした『Another Orion』が120万枚〔を超えるセールスを記録した。 歌唱力を武器に歌手活動を行う傍ら、「FUMIYART(フミヤート)」名称で個展を開催したり、愛・地球博の名古屋市パビリオン『大地の塔』をプロデュース(世界最大の万華鏡としてギネスブック認定)したりと、幅広く活躍する。数多くのテレビドラマにも出演。 楽曲提供では、猿岩石への『白い雲のように』(作詞。作曲は弟の尚之)や、MISIAへの『星空の片隅で』(作詞・作曲)などがある。吉川ひなのの『ハート型の涙』を始めとする4曲では楽曲プロデュースも兼任している。 地域への協力も数多く、出身地の福岡県久留米市へ久留米市歌『ふるさとのささやき』の作曲、くるめ市民カードのデザイン提供、福岡放送のロゴマーク作成、母校久留米南筑高校の制服デザインなどがある。〔INLIFE 男の履歴書 藤井フミヤ 〕また、地元福岡県のプロ野球球団福岡ソフトバンクホークスの応援歌『勝利の空へ』を生で歌うため、毎年開幕頃(スケジュールによる)は試合観戦に福岡 ヤフオク!ドームを訪れている。なお、敗戦の場合は観戦だけである。 1997年10月1日開局で鹿児島県初となったコミュニティFMの鹿児島シティエフエムの愛称"FRIENDS FM 762"は、藤井フミヤにより名付けられた。藤井はジングルにも登場し「オレのFM、キミのFM、フレンズFM762(フレンズエフエム ななろくに)」とアナウンスしている。そして取締役にも就任している。 長野オリンピック冬季大会のカウントダウンTシャツのデザインを手がける。1998年の大会当日までの残りの日数を刻んだTシャツで、フミヤは500 - 401日前までのデザインを担当。 2007年に第62回神宮式年遷宮の奉賛曲「鎮守の里」を作詞・作曲した。シングル「君になる」に収録されている。伊勢市に3日間滞在し宇治橋のそばの五十鈴川の河原で作曲した〔伊勢志摩経済新聞 2007年4月18日 式年遷宮奉賛曲「鎮守の里」収録CDを発売-藤井フミヤさん 〕。 2008年の大晦日に行われた日本武道館でのカウントダウン・ライブで、チェッカーズ時代とF-BLOOD名義、そしてソロを含む通算公演回数が、矢沢永吉と歴代1位タイの102回になった。それを受け、「音楽を始めたきっかけが(矢沢を擁する)キャロルだったので、その矢沢さんと武道館のステージに立った回数が並んだ事はすごく光栄です」と語っている。 2011年10月15日に開催される『Setting Sun Sound Festival〜in Amami〜vol.2』に出演。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤井フミヤ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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