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藤井實[ふじい みのる] 藤井 實(ふじい みのる、1881年11月〔保阪、p.141〕または1880年〔『世界大百科事典』(コトバンク )や土屋知子の論文では生年を1880年としている。〕 - 1963年)は、日本の外交官。また、東京帝国大学在学中の1902年に、特殊な電気計時装置を使った測定で100メートル競走に10秒24という記録を残したとされる人物としても知られる。名前は藤井実と表記されることもある。 == 経歴 == 東京・本郷に、昌平黌の漢学教師を父として生まれる〔。旧制郁文館中学校から第一高等学校を経て〔、1902年に東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)に進学する〔保阪、p.131〕。体格に恵まれていた(帝大1年当時、身長179cm、体重71kg〔)藤井は中学時代から各種のスポーツに親しみ、一高時代には陸上競技で並ぶもののない成績を収めていた〔。特に短距離走と棒高跳を得意とし、棒高跳のポールに竹を使ったのは藤井が最初とされる〔保阪、pp.139 - 140〕。また、スパイクシューズの使用も日本で最初だったという〔。陸上競技の才能により、一高時代から東京帝大教授の田中舘愛橘に目をかけられ〔、これが「世界記録」につながることになった。帝大1年生だった1902年11月8日に開かれた東京帝大運動会〔今日、東京大学で「運動会」は体育会系のクラブ等を統轄する団体(東京大学運動会)を指す言葉であるが、ここでの意味はそれとは異なり、世間一般で言うところの運動会であった。この運動会は(別の開催年をモデルに)東京帝大英文科教授だった夏目漱石が『三四郎』にその一部を描写している。『三四郎』の中で「二百米の競走」に一着となった人物は、1904年の運動会での藤井がモデルであると考証されている(土屋、p.13)。〕に出場した藤井は100メートル競走に優勝し、優勝者に与えられる「優勝者競走」にも出走することになった〔保阪、p.133〕。この優勝者競走には田中舘が製作した電気計測器が持ち込まれて記録が計測された〔。その測定結果は10秒24というものであった(詳細は後述)。東京帝大では吉田茂と同級だった〔保阪、p150〕。 東京帝大卒業後の1906年、吉田と同期で外務省に入る。その年はOBとして東京帝大の運動会に出場、棒高跳びで3m90cmを記録した〔が、この年を最後に陸上競技を離れた〔保阪、p.143 - 145〕。その後は外交官としてシンガポール領事、アメリカ大使館書記官、フランス大使館参事官、チリ大使などを歴任〔。1928年、陸軍の中国に対する強硬姿勢に反発して外務省を辞し、以後は日本外交協会の理事となり、対英米協調の立場で陸軍の外交政策への対抗を試みた〔。 1961年、『文藝春秋』1962年1月号に「国産世界記録第一号」と題した、東京帝大運動会のエピソードを綴った手記を発表した〔。 1963年夏、心待ちにしていたという東京オリンピックまで1年を残し、心不全のため死去〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤井實」の詳細全文を読む
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