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北村 春吉(きたむら はるきち、旧姓:藤井、1897年3月1日〔「whoplus」(日外アソシエーツ) , 2014年9月18日閲覧 〕 - 1996年12月19日〔〔)は、滋賀県野洲市出身の数学者、旧制専門学校校長、予備校講師、サッカー選手。 ==経歴== 1897年、滋賀県野洲郡野洲町(現:野洲市)富波甲に生まれた。滋賀師範学校(現・滋賀大学)在籍時に恩師の落合秀保と出会い、サッカーを始めた。1916年3月、滋賀師範学校卒業。 その後、東京高等師範学校に入学し、蹴球部(現:筑波大学蹴球部)に所属。在学中の1917年に第3回極東選手権大会の日本代表に佐々木等や武井群嗣らと共に選出され、2戦目のフィリピン代表戦で2得点を決めた。なお、この得点が日本代表の初得点となった(試合は2-15で敗れ、日本代表の最大差敗戦試合となっている)〔但しこの試合は国際Aマッチに認定されていない。国際Aマッチ初の得点者は第6回極東選手権大会のフィリピン戦(1923年5月23日)でゴールを決めた清水隆三である。〕。 1920年3月、東京高等師範学校卒業。1923年3月、京都帝国大学理学部を卒業後は数学者〔〕としての道を歩み、大学教授を歴任。また、1938年6月より新田純興や山田午郎らと共に大日本蹴球協會(現:日本サッカー協会)の評議員に選出された〔「蹴球協会新評議員決定」 朝日新聞、1938年6月16日、2015年1月5日閲覧〕。 1947年、大阪市立女子専門学校の初代校長(~1951年まで)に就任した。定年退官後は、予備校講師〔http://yobikou18.seesaa.net/article/42789586.html 「全国予備校有名講師」『増補 ザ・予備校 87年度版』(1987年、第三書館)。1987年時点では、関西ゼミナールの数学教師。〕として長く教鞭を執った。 1996年12月19日、大阪府藤井寺市で肺炎により99歳で死去した〔「北村春吉氏死去」 朝日新聞、1996年12月21日、2014年7月9日閲覧〕。2013年現在、消息が判明している日本代表に選出された選手の中では最長寿記録である〔ナショナルチームに選ばれた事があり、生没年月日が判明しているサッカー選手の中でも、1996年の死去当時、最長寿記録(99歳293日)だった。その後、2008年に1930年第1回ウルグアイW杯の参加メンバーでもあったルイス・ソウサ・フェレイラ(ペルー)が記録を更新し(99歳359日。2008年9月29日死去)、2015年現在はやはり1930年第1回ウルグアイW杯参加メンバーの最後の存命者だったフランシスコ・バラージョ(アルゼンチン)が世界中の各国代表経験選手史上初の100歳越えを果たし、2010年8月30日に100歳206日で死去したのが最長寿記録である。〕。 北村家に養子に行った事から、江戸時代初期の俳人・北村季吟の末裔であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北村春吉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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