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藤倉 修一(ふじくら しゅういち、1914年3月12日 - 2008年1月11日)は、日本のアナウンサー、放送評論家。昭和中期のラジオ全盛期にNHKに勤務し、第1回NHK紅白歌合戦の白組司会を務めたことで知られる。 == 略歴 == 東京都大田区出身。常陸山谷右エ門を親類に持ち、幼時から相撲を愛好して育つ〔橋本一夫『日本スポーツ放送史』(大修館書店)pp.164-165〕。法政大学卒業後の1940年、NHKに放送員(アナウンサー。ただし、当時のアナウンサーは取材や企画などの担当を兼任していた)として入局。東京中央放送局を経て、1941年から1943年にかけて福島放送局に勤務〔橋本一夫『日本スポーツ放送史』(大修館書店)pp.126-127〕〔『マイク餘談』〕。 1945年より、ラジオ番組『街頭にて』(のちの『街頭録音』)の専属インタビュアーとなる。マイクを避ける人々を柔和な語り口で呼び止める様子などが反響を呼ぶ。1947年には、日本のドキュメンタリー番組の先駆けである『社会探訪』(『世相録音』から改称)を担当。同年11月から司会を担当したクイズ番組『二十の扉』は1960年まで放送されて長く人気を博し、回答者が問題に正解した際に藤倉が発する「ご名答」は流行語となった。 この間、第1回NHK紅白歌合戦(1951年)、第2回NHK紅白歌合戦(1952年)の白組司会、エリザベス女王戴冠式中継(1953年)の実況などを担当。 1970年にNHKを定年退職後は、民放の番組へ出演したり、NHKの後輩・高橋圭三が学園長を務めるアナウンス学園(渋谷区)で校長を務め、後進の育成に尽力したりした。 2008年1月11日午後4時53分、心不全のため死去。93歳没。葬儀は19日に近親者のみで済ませ、公表されたのは22日であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤倉修一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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