翻訳と辞書 |
藤原仲成[ふじわら の なかなり]
藤原 仲成(ふじわら の なかなり)は、平安時代初期の公卿。藤原式家、中納言・藤原種継の長男。 == 経歴 == 延暦4年(785年)父・種継が暗殺されたことから、若年ながら従五位下に叙され、翌延暦5年(786年)衛門佐に任ぜられる。桓武朝では衛門佐・左中弁などを務める一方で、出雲介・越後守・山城守・大宰大弐・大和守・伊勢守と地方官も兼ねた。この間、延暦16年(797年)従五位上、延暦17年(798年)正五位下、延暦20年(801年)従四位下と桓武朝後半にかけて順調に昇進した。 平城朝では妹の尚侍薬子が天皇の寵愛を受けたこともあり、仲成は重用され権勢を誇ったが、陰険で専横な振る舞いが多かったために人々から憎まれたという。また、大同2年(807年)に発生した伊予親王の変にも関与していたともされ、変後仲成は右兵衛督・右大弁と要職を歴任し、大同4年(809年)には北陸道観察使に任ぜられ公卿に列した。 同年に平城天皇が嵯峨天皇に譲位すると、権勢の失墜を恐れた仲成・薬子兄妹は平城上皇とともに平城京に移り上皇の重祚を画策して二所朝廷の対立を招く。大同5年(810年)6月観察使制度の廃止により参議となる。しかし、9月6日の平城上皇による平城京への遷都命令により平城上皇・嵯峨天皇の対立が激化すると、9月10日嵯峨天皇に先手を打たれて捕縛、右兵衛府に監禁の上、佐渡権守に左遷され、翌日紀清成・住吉豊継の手により射殺された。 仲成の射殺を最後として以後、平安時代末期の保元の乱まで中央では死罪は行われなかったと言われているが、仲成に対して行われた「射殺」という処刑方法は、養老律にある斬・絞の方法とは異なり、かつ一旦正規の左遷手続が下された相手に行われていることから、法律の規定に基づいた「死刑」ではなく、天皇独自の判断による「私刑」であった可能性が指摘されている〔上横手雅敬による。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原仲成」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|