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藤原仲経[ふじわら の なかつね]
藤原 仲経(ふじわら の なかつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。権中納言、正二位。坊門中納言藤原親信の二男。母は官女半物阿古丸。二条定輔の同母弟である。 兄定輔のように琵琶に秀でていたわけではなく、かといって弟親兼の子信成のように後鳥羽院から菩提を弔うよう仰せがあったりしたわけではない。一門が後鳥羽院政下で重用された一環として仲経も昇進できたと考えられる。 == 経歴 == 以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。 承安4年(1174年)1月5日、叙爵。寿永元年(1182年)10月7日、従五位上に昇叙。寿永2年(1183年)1月22日、右兵衛権佐に任ぜられる。元暦元年(1184年)7月24日、正五位下に昇叙。文治3年(1187年)1月5日、従四位下に昇叙。文治4年(1188年)10月14日、備前守を兼ねる。建久元年(1190年)1月24日、従四位上に昇叙。建久2年(1191年)閏12月4日、丹後守を兼ねる。建久3年(1192年)1月27日、丹後守を止める。建久6年(1195年)1月5日、正四位下に昇叙〔七条院御給。〕。建久7年(1196年)12月25日、伯耆守を兼ねる。建久8年(1197年)9月20日、父親信の喪が明けて復任。正治元年(1199年)1月20日、内蔵頭に任ぜられる。同年6月23日、伯耆守を止める。 建仁元年(1201年)1月6日、従三位に叙される。元久元年(1204年)1月5日、正三位に昇叙〔院御給。〕。元久2年(1205年)1月29日、修理大夫に任ぜられる。4月10日、参議に任ぜられる。建永元年(1206年)1月13日、備中権守を兼ねる。承元2年(1208年)7月9日、修理大夫を止める。承元4年(1210年)12月17日、権中納言に任ぜられる。建暦元年(1211年)3月23日、従二位に昇叙。9月8日、権中納言を辞し正二位に昇叙。承久元年(1219年)11月24日、本座を許される。承久2年(1220年)6月15日、出家。嘉禎2年(1236年)12月27日、薨去。享年70。
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