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藤原俊兼 : ウィキペディア日本語版
藤原俊兼[ふじわら の としかね]
藤原 俊兼(ふじわら の としかね、生没年未詳)は、鎌倉時代初期の役人・官吏。源頼朝の初期の右筆筑後権守日本史Bの教科書類では筑後権守俊兼と表記されることもある。
吾妻鏡』での初出は養和2年(1182年)正月28日条で、俊兼は簀子(すのこ)に控えて、伊勢神宮に奉献される神馬10匹の毛付を記している。元暦元年(1184年)4月23日には、下河辺政義が俊兼を通じて訴え出、頼朝の命により、俊兼が常陸国目代に御書を代書している。藤原邦通と重なりつつも、それと入れ替わるようによく登場し、逆に邦通は右筆としても影が薄くなる。同10月20日条では頼朝御亭東面の廂を問注所とし、三善康信を筆頭に藤原俊兼、平盛時が諸人訴論対決の事を沙汰することになったとある。
元暦元年(1184年)11月21日条。源頼朝に呼び出された俊兼は元々華美な者だったがそのときは特に派手で、小袖十余領を着、その袖の褄(つま、端)は重色になっていた。頼朝は俊兼の小袖の褄を切り、千葉常胤土肥実平の質素さを引き合いに出しながら「お前は才能に富んだ者なのに倹約ということを知らない」「今後は華美を止めよ」と説教する。その場に居合わせた大江広元や藤原邦通も肝を冷やしたとある。
文治2年(1186年)3月6日条では源義経の行方について静御前の尋問を行った。同年8月15日条では、西行の語る流鏑馬の奥義を頼朝が俊兼に書き取らせている。同じ京の文官である大江広元、三善康信、二階堂行政らと比べれば行政実務のトップクラスということではなかったが、奉行人、右筆として常に頼朝の側に居た様子が覗える。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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