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藤原 信輔(ふじわら の のぶすけ、生年不詳 - 元暦元年(1184年))は平安時代後期の貴族。藤原北家道隆流、中納言・藤原経忠の子。官位は正四位下・右京大夫。 久安5年(1149年)当時因幡守を務めている〔『兵範記』久安5年10月2日条〕。久寿3年(1156年)右京大夫に任ぜられる〔『兵範記』久寿3年2月2日条〕。保元元年(1156年)7月に鳥羽法皇が崩御した際に、藤原成親、源光保、信西、藤原惟方ら八人と法皇の遺体を入棺したという〔『兵範記』保元元年7月2日条〕。その後出家し、太秦入道と号した〔『尊卑分脈』道隆公流〕。元暦元年(1184年)卒去。 == 系譜 == *父:藤原経忠 *母:不詳 *妻:橘家光の娘 *長男:藤原信隆(1126-1179) *次男:藤原信保(?-?) *三男:藤原信行(?-1183) *四男:藤原親信(1137-1197) - 水無瀬家の祖 *妻:不詳 *男子:藤原師親 *男子:藤原経弘 *男子:信覚 *女子:藤原公行室 *女子:藤原顕時室 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原信輔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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